2018年3月 2日 (金)

桜火奇譚【2】幽霊船04 魚探に映る船影

 俺たちが幽霊船と出会ったのはその日の帰りだった。昼前に天気が急変して俺たちはあわてて戻り始めた。赤潮海域に入ったあたりから霧が出て蒸し暑くなった。あっという間に視界が閉ざされた。

 黒井はキセノン灯をともして霧笛を鳴らした。海のあちこちで霧灯のともるのが見える。大型船の回転灯が前方をゆっくりと通過する。俺たちと同規模漁船のものもあちこちに見える。この海域のほとんどの船が最徐行していた。それがスゥーと霧に隠れていった。

 黒井はエンジンを切った。霧に押しつぶされるような静寂が船を包み込んだ。ねっとりと肌にまとわりつくような熱気がこもっていた。

「菅浦の灯台が見えるはずやねんけどな」
「静かやな」
「おかしいな。赤潮も消えとる」
「ほんまやな」

 黒井はコンパスを確かめながらあたりを見渡していたが何も見えなかった。さきほどまで見えていたはずの他船の霧灯も見えない。白い霧が流れるばかりだ。黒井は肩をすくめて言った。

「幽霊船の話を聞いたことあるか」
「いや、知らんな」
「霧が濃くなると出るそうや」
「今やな」
「どんな船や分からんそうやけど結構でかいらしい」
「へぇ」
「お前、海のゴーストは管轄外なんか」
「ゴーストシップは願い下げやな」
「まあええわ、ちょっと無線で海保に聴いてみるわ」

 黒井が無線に手をかけようとかがみこんだ時、あっと声を上げた。

「なんや、どうした?」
「ちょっと、これ見てみい」

 それは点けっぱなしになっていた魚探だった。覗きこむと大きな影が映っていた。それもけっこう濃い。

「今、船は動いてるんか」
「ああ三ノットで北へ流れとる」
「一秒で一.五メートルやな」

 俺はとっさに腕時計を見た。黒井が声を上げてから十秒はたっている。十五メートルはある。相手が動いているならもっと長い

「なんやこれは。クジラか」
「こんな大きなクジラはこのへんにはおらへん」

 俺は結論を言った。

「そしたら潜水艦やな」
「海自の潜水艦はまだこのへんにはおらへん」

 俺はビリビリと震える不鮮明な画像を描く魚探に見入った。それはゆっくり動いているようにも見えた。そしてウソのようにフッと消えた。一分がたっていた。九十メートルである。相手が動いていたとすれば実寸は分からない。でも相当でかいことは間違いない。

「これがおまえの言う幽霊船なんか?」
「潜水艦やったとは思わんかった。おやじに確かめてみるわ」

 黒井の父親は元は海軍の潜水艦乗りだったらしい。戦前の海軍が全長九十メートルの潜水艦を擁していたのだろうか。

 あちこちから霧笛が聞こえ始めた。思い出したようにあたりで霧灯が瞬きだした。霧が急に晴れていく。菅浦の灯台が見えた。黒井はエンジンを始動させ霧笛を長く鳴らした。

「微速ぜんしーん!」
「びそくぞんしーん」

 俺たちは霧のなかをゆっくりと母港へ進路を向けた。

桜火奇譚【2】幽霊船03 ウミガメ

 三度ほど網を入れた。魚探の教えるとおりクロダイの大漁だった。黒井はいずれすべての漁船がこれを使うようになるらしい。それでも今後二十年の間に漁師の数は半減するだろうから乱獲にはなるまいという。

「半分か」
「埋め立ての補償が入った時点でうちの漁協は半分になったからな」
「廃業したんか」
「そうや。焼玉エンジンに乗っている年寄り連中がなディーゼルはよー使わんちゅうてな」

 俺たちは波に揺られながら朝メシにした。黒井の母が持たせてくれたオニギリの山を広げる。黒井は獲れたばかりのクロダイをおろして刺身にした。黒井といいワカといいどうして料理上手な男ばかりなのだろう。

「俺ができるんは魚をさばくだけや。ワカさんほどやない」
「そんなけできたらもう立派な料理人やな」

 タイは新鮮すぎて少し堅かった。でもクロダイ特有の甘みがあってオニギリによく合った。黒井が箸を突き出して話を続ける。

「まあな。で、俺もちょっと考えたんやけど、うちを釣船宿にしよ思ってな。魚料理が出せれば客がつくんとちゃうか」
「観光漁業か」
「まあな」
「おやじさんはなんて言うてるんや」
「とりあえず大学は出ろと。そんときまだ漁師をやりたいんやったら自分はなんも言わへんて」

 黒井は高校を出てすぐに漁師になるつもりだった。それを父親が反対してついこのあいだまでもめていたのだ。

「そうなんや。良かったやないか、進路が決まって。それ山本にも言うてあるんか」
「ああ、まっさきに知らせといたわ」

(おかしいな)

 柏木が相談を受けたのはその前だったのなのだろうか。俺が首をかしげていると黒井は船べりをゲンコツで叩き始めた。

「なにしてるんや」
「まあええから見とき」

 木造船が打楽器のように音をたてる。それがしばらく続くと海中深くから何かが浮き上がってくるのが見えた。黒井は叩くのをやめるとひとつだけ残しておいたオニギリをばらして海へ落とした。ゆっくりと海中に広がる米粒に食いついているのは大きなウミガメだった。

「ウミガメやな」
「ウラシマや」
「ん?」
「カメの名前や」

 ウラシマはカメの名前ではなくそれを助けた人間の名前ではないのか。それはともかくこいつは漁に出てカメと遊んでいたのか。

「お前爬虫類と心通わせてるんか」
「まあな」

 ウラシマは捨てられた刺し網にからまれて瀕死の状態で赤潮のなかを流れていたそうだ。それを黒井親子が拾い上げて介抱したあとこの場所に放したそうだ。それ以来、黒井が呼ぶと出てくるらしい。

「へぇ、カメも人を覚えるんやな」
「たぶんこの船のディーゼル音を覚えてるんやろな」

 それは甲羅の幅が一メートルはある大亀だった。米粒をあらかた喰い尽くすと海面に上がりこちらを見ている。

「おまえ竜宮城に連れていかれるんとちゃうか」
「そんなあほな」

 カメはしばらく波に揺られながら浮いていたが、そのうち海底へ沈んでいった。

2018年2月28日 (水)

桜火奇譚【2】幽霊船02 赤潮

「血の色やな」
「ああ、世も末よ」

 晴れやかな初夏の早朝、5トンディーゼルエンジン音が快調に響く。七月になったばかりの土曜日のまだ暗いうちから、俺は黒井の漁船に乗っていた。木造の小型漁船だが、エンジンだけは最新型を載せている。

 黒井はいつもは父親とふたりで漁に出ているが、父親が漁業組合長の仕事があるときは俺が手伝っている。黒井は最近小型船舶免許を取ったのでいっぱしの船長気取りである。見習い行者としてはちょっとうらやましい。でももし行者に資格試験があったら嫌だな。高校受験に失敗している身としては試験と名の付くものに拒絶反応がまだ強い。

 さて、あたりは悪臭に満ちていた。ものの腐った酸っぱい匂いが海面から湧き上がってくる。船は薄暗がりの中をねっとりとした赤潮をかきわけながら進んだ。

「なんやねん、あの赤いのは!」

 俺はエンジン音に負けまいと大声をあげた。

「植物プランクトンらしいで!」
「植物なんに、なんで赤いんや?」
「知らんわ!」

 黒井は吐き捨てるように言うと付け加えた。

「赤潮で酸素が薄なって魚が死ぬんや! 死の潮やで!」

 大男はそれきり黙ってゆく手を見据えた。海に生きる男として魚を殺す赤潮を憎んでいるのがよく分かる。こいつはそういう一途なところのある男だ。

 小島が見えてきた。あれが今朝の漁場である。

 船は突然赤潮を抜けた。いきなり澄んだ海が広がる。これが本来の海なのだが、違う世界へ迷い込んだような驚きがある。

 島は浦島という。創世神ウラが世界を創ったとき最初に生まれた島だという。密教の有名な行場なので俺は幾度か上陸したことがあった。漁港があり海水浴場もあった。シーズンにはそれなりに賑わっている。

 港の反対側のこちら側は断崖絶壁が続く。その険しい行者道の途中に荒れたレンガ造りの建物が残っていた。海軍の潜水艦聴音施設があったそうだ。黒井はその絶壁の前で船を停めた。

 エンジン音が消え船べりを叩く波の音が響くのが心地よい。さきほどまでの地獄のような海がウソのようにさわやかだ。

 黒井は魚探のスイッチを入れた。これはメーカーから漁協に提供された試供品で、組合長である黒井の船が使っている。しばらく調整していたが魚群を見つけたようだ。

「やっぱりおるで。アジや」
「アジか」
「アジを獲るんとちゃうで。アジを狙ったチヌを獲るんや」
「クロダイか」

 俺はどこでなにが獲れるのかには興味がない。こうして絶壁の様子を海から眺められるのがとてもうれしい。この絶壁が観音巌と呼ばれているのがよく分かる。隆起した中生代火成岩が侵食されて翼を広げた天使のような姿となっている。これを千手観音に見立てたわけだ。見事である。

 絶壁に見とれる俺に構わず黒井は樽ウキを投げた。ウキには四十メートルほどの刺し網がついている。

「ええかオリ、始めるで」
「ああ、もちろんや」

 黒井は再度船のエンジンを稼働させた。ドドドドドッというディゼール特有のエンジン音が響き船はゆっくり進みだした。

「おもーかーじいっぱーい、微速ぜーんしーん」
「おもーかーじいっぱーい、びそーく、ぜーんしーん」

 操舵してもいない俺が復唱する意味はないのだが、せっかくなので黒井の船長気分に合わせてやっている。

 船は盛大なエンジン音のわりにはゆっくりと進む。俺は刺し網をたぐりながら降ろしていった。それは錘とウキによって水中に網の壁を作る。船は右回りに回旋し周長四十メートルほどの網の輪っかを結んだ。そのなかにアジの魚群がいるわけだ。そして狙いのクロダイも。

 黒井はエンジンを停めてしばらく船に波を打たせていた。島影で潮流も緩やかだ。こうしてゆったり揺られながら網が波に馴染むのを待つのだ。俺はこの時間が好きだった。

 俺は柏木から聞いたことを確かめようと思った。

「なあ黒井。おまえ山本とは仲良くやってるのか」
「なんや珍しな。お前がそんなこと聞くなんて」
「いや別に」
「分かった。ナルから何か聞いたんや」
「それは言えない」
「まあええわ。こないだちょっとケンカしたしな。でももう仲直りしたで。謝ったのは俺のほうやが」

 俺には女子とケンカするなど考えられない。ましてや謝るなどと。

「へぇ」
「へぇやないで。お前が聞いたんやろ」
「せやな」
「まあええわ。ほな網絞ろか」

2018年2月23日 (金)

桜火奇譚【2】幽霊船01 恋愛相談

「観音寺さんは恋をしたことがありますか」
「ない」
「……即答ですね」

 柏木が残念そうに言う。なぜ俺が柏木に残念がられねばならないのか。

 七月に入ってしばらく蒸し暑い日が続いていた。きょうも風もなく大部屋には熱気がこもっていた。その匂うような熱気のなかに柏木の擦る墨の香りが立ち昇る。柏木はしばらく陸上部を休むそうだ。そのかわり書道部を起こすという。つまり大部屋の住民になるということだ。なんと迷惑なことだろう。

 柏木は墨をカタリと音を立てて置くと傍の筆を取り上げた。それはかつて文字すすりの異名をほしいままにした白虎の成れの果てだ。柏木はきょうこの筆を使って、白虎のうらむを晴らすという。

 筆は佐伯悠馬が功績によって清朝から下されたという筆だった。数十本の筆のうちほとんどが新しい筆だったが、なかの数本は明朝の古筆だった。これはそのうちの一本だった。

 柏木は筆に向かってなにかつぶやいている。やめてほしい。妖怪になにか吹き込むのは。おもむろに柏木は筆にたっぷりと墨を含ませた。筆先が黒く染まり見る間にしなやかになっていく。それを見つめていた柏木が微笑んだ。そして一気呵成に筆を走らせた。

「おまえの恋は古めかしい上に堅苦しいな」
「ほっといてください」

 柏木が書いたのは「恋」という一文字だった。それも「戀」という古字のほうを隷書体で書いた。さすがに達筆であることに変わりない。額に入れて飾れるほどの戀である。柏木は筆を置いてしばらく考え込んでいたが、思いついたように俺に質問を投げた。

「観音寺さんを探偵と見込んでご相談があります」
「なんや。ゴーストなら間に合ってるで」
「わたしのさる友人のことなんです。が、とある殿方に恋をしました」
「山本と黒井のことか」

 柏木は今気づいたというように目を見張って驚いていたが、すぐに言葉を継いだ。

「それが誰なのかは申せません」
「まあええわ。それで?」
「急速に親しくなったようなんですが、最近相手がよそよそしいと。距離を置こうとしているようにも思えるそうです」
「進路で悩んでるんとちゃうか」

 柏木がまた目を丸くしている。いいから、話を続けてくれ。

「観音寺さんは恋愛をしたことがないのに、なんでそんなことが分かるんですか」
「おまえ俺をばかにしてるやろ」
「いえ、そんなことありません」
「自分に無いものを相手に見る。恋愛なんて所詮自分の勝手な思い込みを相手に投影してるだけとちゃうんか」
「そんなふうに割り切れるものやろか。それにちょっと歪んでますね」
「やかましわ。ほんならおまえは恋愛したことあるんか」

 柏木は一瞬目を見張ったが皮肉な笑いを浮かべてすぐに言い返した。

「もちろんありますよ。振られたことやってあるんですから」

 そう言って腕組みをしながら俺を横目に見て笑っている。なにを意気揚々としているんや、この女は。まあ俺はこいつの恋愛遍歴に興味はないがな。

「相談はそれだけか」
「えっ?」
「だから、その友人とやらの恋愛相談はそれでええのか」
「うちのことは聞かないんですか」
「おまえのことはどうでもよろしい」

 柏木がまた残念そうな顔をしている。だからなんでおまえに残念そうな顔をされなきゃならんのや。

2018年1月27日 (土)

桜火奇譚【1】文字消失事件24 解決編

「で、結局その筆って何やったん?」

 黒井が尋ねる。登校途中で酢屋裏の路地を抜けているところだ。このままなら踏切が降りる前に渡れるだろう。

「佐伯佑馬が清朝から拝領したものやったらしい。図書館の蔵品のひとつや。道具として生まれながら使われることない悔しさが、同じく悔しいと思う人の気持ちにリンクしたんやな」
「柏木の秘密が筆と結びついてゴーストを生んだわけやな」
「まあ、そういうことやね」

 黒井にはそういうことにしておこう。

「げに怖ろしきは女人の想い掛けなり」
「なんやそれ」
「なんでもない」
「でもよかったやないか、今回の件でナルと仲良くなれて、ウグッ」

 俺は瞬時に黒井を酢屋のレンガ塀に押さえつけてすべての関節の自由を奪っていた。

「おまえはまだ分からんようやな。今すぐここでお前をゴーストに変えてみせようか」
「すまん、悪かった、冗談や冗談!」

 そのときすぐ横のレンガ塀の裏口が開いて誰かが飛び出してきた。

「マリさん!」
「なにしてんの、あんたたち。今日は耐寒訓練やから十分前に集合やで」
「そうやった」
「走るで! ついて来なさい!」

 走り出した俺たちの後ろで黒井が叫んでいる。

「ちょっと待てや!」
「あはははは」

 俺は笑いながら走っていた。走ってくる俺たちを見て踏切り手が遮断機を下すハンドルを止めた。

「ありがとう!」

 マリさんが礼を言いながら踏切を颯爽と走り抜ける。俺たちも走り抜けた。走りながら思った。結局俺たちはこの人に振り回される運命なのかも知れないと。でもそれはそれで愉快かも知れない。そのとき浜から一陣の風が吹いた。

桜火奇譚【1】文字消失事件23 告白

 保健室に入るとベッドに寝かされた柏木が天井を見上げたまま声をかけてきた。

「観音寺さん、民俗学的に見てこれは一体どういう意味があるのでしょうか」

 柏木は白い患者服に着替えさせられていた。まだ頭にコマを食いつかせたままだ。コマの四つの赤い目がぎろりと俺を睨む。

「コマはボールが好きなんやと思う」
「そんなことは分かってます」

 近づくとコマがうなった。柏木の額に牙が食い込み血が流れている。柏木は俺を見ずに話を続けた。

「このまま一生この子を頭に食いつかせたまま暮らさんならんのでしょうか」

 まじめな顔でいうので思わず吹き出してしまった。

「笑い事やありません」

 泣きそうにそう言うと柏木は窓のほうに顔を傾ける。運動部の練習する声が聞こえてくる。

「ええもん持ってきたからちょっと待っててや」

 柏木が初めて俺の方を向いた。コマも白目を剥きながら俺をにらんでいる。こいつは最初からかわいくなかった。

 俺はギターケースを開いた。

 それは部室に昔からある古いアコースティックギターだった。ひょっとしたらワカさんのギターかも知れない。
 
「なんですかそれ?」
「部室にあったんや」
「似合いませんね」

 柏木は弱々しく笑った。

「ボブデュランでも弾いてくれるんですか」
「好きなんか」
「ええまあ多少」

 俺がギターを持ち出したのはなにも柏木に下手なギターを聴かせるためではない。コマが本当に白虎であるならば弦楽器には弱いはずだった。

 多少説明すると弦楽器は胴が空洞になっている。空洞な箱のようなものは火の性質を帯びる。なぜなら易の火は「☲」と書くからだ。中が空洞になっている。だから琴やギターは火の楽器なのだ。それを聴かせれば金気のコマは克されるだろう。これが俺の推理だ。

ー どれだけ歩けばいいのだろう。人と呼ばれるまでは。

 チューニングしながら風に吹かれての一節をつぶやく。

 柏木が息を飲んで俺を見た。彼女が顔を背けたり振り向いたりするたびに頭に喰いついたコマがゴロンゴロンと揺れる。

「驚きました。訳したのですか?」
「ええか。今大事なのは風のなかの答えよりおまえの額にくい込む牙をいかに抜くかだ」
「はい」
「ほならいくで」

 そして「風に吹かれて」の最初のコードをゆっくりストロークした。

 効果はてきめんだった。

 コマはそれを聴き終わる前に目をまわして柏木から落ちた。床で目を回している。
 
「なんで?」

 柏木は目を丸くしながら頭に手をやった。コマが離れていることを確かめると急に目に一杯涙を浮かべた。そして俺に背を向けて泣いた。俺は正直どうしていいか分からなくて、しばらく曲のコードをなぞっていた。いつの間にか柏木は泣き止んでいた。そして小さな声で俺に告げた。

「観音寺さん、うちのほんまの秘密、聞いてくださいますか」

 柏木は偶然、姉の恋人が山本館長であることを知ったそうだ。道理で親友にも話せないはずだ。山本館長はサキの父親だからな。ふたりの逢瀬は山本館長の突然の病死によって終止符が打たれた。柏木はそのことを誰にもしゃべらなかった。大切な親友にも。そして敬愛する姉にも。

 こうして彼女は誰にも言えない秘密を得た。それから本の白化が始まったらしい。

 俺は秘密の重さに言葉を失った。彼女がその秘密にひとり耐えてきた時間の重さがひしひしと伝わった。俺は俯いたまま自然に弦を奏でていた。

― 山は何年かかるのか
― 山が海に洗い流されるまでは
― 人は何年かかるのか
― 人が自由になるまでは

 柏木が泣きはらした目で俺を見ているようだ。俺は彼女の顔を直視できなかった。

― 人はいつになったら気付くのだろう
― 見ないふりをし続けていることに

 最後のフレーズを柏木は俺と一緒に英語で歌った。

― 友よ、答えは風に吹かれている
― The answer, my friend, is blowin’ in the wind
― 答えは風に吹かれている
― The answer is blowin’ in the wind

 歌い終るとコマは消えていた。そこには一本の古い筆が落ちていた。拾い上げるとそれは図書館で見た極彩色に隈取られた象牙の柄の筆だった。

「なんですか、これは」
「図書館に納められている資料の一部や。たぶん佐伯コレクションなんやろう」
「なんでそれがゴーストに」
「器物妖怪の一種やな。筆は文字を書くために生まれてきた。けどこいつは長いこと使われずにきた。それで文字をすすって復讐しようとしたんやろな」
「うちのせいやわ。うちが病気を憎んだからコマが出てきて青い本を食べてくれたんや」
「まあ、そうも言えるが、実際こいつがなんで出てきたのかは分からん」
「うちのせいやないと」
「まあな。俺はお前の秘密を知ってよう分かったわ。ゴーストはたいがい嫉妬から出てくるんや」

 柏木は息を飲んで、ますます目を見開いた。これから俺の言うことをひとことも聞き漏らすまいとするように。

「図書館で最初に消えたのは青本ではなくて佐伯コレクションの検索カードやったそうや。そのコレクションは山本館長がどこかに隠して今は行方不明や」
「そんなことがあったんですか」
「これは俺の想像やが、マリさんは館長がその場所を教えてくれなかったことに嫉妬したんやないかな。カードはあるのに現物がどこにあるのか分からんのやからな」
「姉さんは根っからの佐伯党ですから」
「おまえも佐伯党の末裔やろ」
「なんですかそれは」
「まあええわ。それでマリさんは検索カードを見たくもなくなったんやろ。それで消した」
「コマは姉さんが呼び出したんですか!」
「まあ、本人は無自覚やろけどな」
「罪作りな人やね」

 俺は古筆を柏木に渡した。彼女はそれを愛おし気に胸に抱いた。こうして連続文字消失事件は終わった。

桜火奇譚【1】文字消失事件22 中コマ

 その日は大雨だった。

 柏木は六月になってすぐ学校へ復帰した。コマは現れなかった。誰もそのことに触れようとはしなかった。

 午後の体育の授業は男女とも体育館を使った。体育館のまんなかにネットが引かれ男女それぞれがバスケのクラス対抗戦をしていた。体育館の屋根が雨音にうなるように鳴っていた。

 マリさんがホイッスルを鳴らした。ボールが高く上がる。いつものように男子はみな女子コートを見ている。柏木がセンターで淡々と指示を出していた。自分もくるくるよく動いて相手チームをかく乱する。

 俺は常々バスケは頭脳戦だと思っている。相手の裏をかき隙を突き一気に攻め込む。そのためにはチームがひとつの生物のように柔軟に動かねばならない。柏木のチームはその点よく動いていた。

 とくに味方を名前ではなくコードネームで呼び合っているのがおもしろい。タチバナとかヒマワリとか呼んでいる。これだと相手方にこちらの動きを悟られにくい。柏木の発案だろう。策士である。

 試合は柏木のチームが優勢だった。ただ気になることがあった。どこから現れたのか、いつからいるのか、コマがボールを追いかけているのだ。

 大きなしっぽをなびかせながら右へ左へと走っている。ボールと人とコマの動きが混じる。雷鳴が聞こえていた。雨足がひときわ高まり体育館が雨音に包まれる。 

「サクラ! 行くよ!」

 スモールフォワードからシューティングガードへボールが遠投された。柏木のコードネームはサクラのようだ。相手チームの選手がつられるようにボールを見上げた。その一瞬、相手のディフェンスに穴が開いた。

「よし!」

 柏木がキャッチするのとボールとコマが入れ替わるのが同時だった。柏木は入れ替わったことに気づかずコマを掴んでその場で一回転するとチームメイトのコードネームを呼んだ。そして相手を見ずにコマを投げた。投げてからあっと言って立ち尽くした。

 柏木の指示が止まっても味方の動きは止まらなかった。切り込んだパワーフォワードにセンターからコマがパスされる。フォワードは受け取ると同時にジャンプしてゼッケンを揺らしながらシュートした。

「あああ」

 柏木が両手を伸ばしてシュートされるコマを追いかけた。コマはくるくる回転しながら落下してリングに当たって跳ねた。

 グワン!

 リングが楽器のように音をたてた。高く跳ねたコマは柏木めがけて落ちてきた。そして彼女の脳天を直撃した。その刹那コマは柏木の頭に喰いついていた。見ていた誰もが柏木を直撃したのはコマではなくボールだと思った。柏木はしばらく呆然と立っていたが、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。

桜火奇譚【1】文字消失事件21 桜観音

 家に帰る途中で観音堂の戸締りをしているでワカさんと会った。

「こんばんは」
「ああ、オリか。ちょうどええとこに来たな。ちょっと手伝ってんか」

 ワカさんは当たり前のように俺にホウキを渡す。掃除をしろということか。ワカさんが厨子を開いた。お線香に火を点けて鉦を叩いた。

 リン

 涼やかな音色が堂内に反響する。俺は思わず如意輪観音の真言を唱える。

「オンバラダハンドメイウン」

 ここのご本尊は仏像ではなく仏画だ。波に洗われる岩の上に如意輪観音が立つ。その手に桜の一枝があるので桜観音と呼ばれている。高さ2メートルくらいの結構大きな絵だ。

 厨子の後ろは饅頭食いでいっぱいだった。饅頭食いは青い着物を着ておかっぱ頭のこどもの土人形で小さなものから大きなものまでたくさんある。両手に半分に割った饅頭を持って薄ら笑っている。

 この人形にはいわれはこうだ。

 あるとき親が父と母のどちらが好きかとこどもに尋ねた。こどもは持っていた饅頭をふたつに割って、どちらがうまいかと尋ね返したそうだ。比べることはできないということを婉曲に言っている。バカなことを尋ねる親を諫める気持ちもあったのだろう。

 それから饅頭食いは賢いこどもの代名詞となった。そして賢い子が授かりますようにと願うとき饅頭食いを供える風習が始まったという。

 観音さまに願いを懸けて堂内の饅頭食いを一体借りていく。願いが叶ってそれを返すとき新しい土人形を一体添える習わしだ。堂内が饅頭食いであふれているということは、月にロケットが飛ぶ時代になってもまだ桜観音の信仰は生きていることの証だろう。

「俺はな、ここが好きでな。こどもの時分からな」

 ワカさんは厨子の扉を閉めながらつぶやいた。この人は早くに両親を失っている。親について想うこともあるのだろう。そしてワカさんは蝋燭の火を消しながら独り言のようにつぶやいた。

「最近、マリ姉のようすが変なんや」
「えっ、柏木じゃなくて」

 ワカさんはふっと含み笑いをすると話を続けた。

「白本事件は納まってるじゃないか。お前がなっちゃんを見てくれてるからやないんか」
「なんや、知ってたんですか」
「そのことと関係があるのか分からんが、実はもうひとつ図書館から消えたものがある」

 俺は白紙の検索カードを思い出して息を飲んだ。

「破棄された佐伯悠馬資料の検索カードや」
「やっぱり。あれは佐伯コレクションのカードやったんですね」

 ワカさんが驚いて振り返った。

「なんやお前、もう見つけたんか。さすが探偵やな」
「俺は探偵やなくて行者です。ていうか廃棄したんですか?」
「表向きはな。なにせ帝国の国粋理論をリードした思想家の資料や。いくら私設図書館とはいえ置いとくことはできへん」
「……」
「でも山本館長は処分せずに隠したらしい」
「ちょっと待ってください。カードが白紙になったのはいつですか」
「四月のなってすぐやったな。閲覧室の本が白化するより前やった」
「図書館で最初に消えたのは青本ではなくて検索カードやったと言うんですか」
「そうや」

 図書館の隠し蔵書
 行方不明の佐伯コレクション
 謎の大金庫
 全てを知る館長の突然の死
 文字を消すゴースト
 そして最初に消えた検索カード
 俺は謎を解くカギが揃い始めたことを感じていた

「マリさんはなんと?」
「マリ姉にこのことを聞いても何も答えへん。黙ってうらめしそうに俺をにらむんや」

 俺は柏木ににらまれていたころを思い出した。にらむというのはSOSだったのかも知れない。

「それはマリさんが生粋の佐伯党やからやないですか」
「佐伯党って海賊のか。まあ柏木家は佐伯党のまつえやからな」

 それは初耳だった。海賊の血筋だったのか。

「俺はな、消えたカードと佐伯資料の紛失とがリンクしてるような気がしてならへんのや」
「なるほど。それは良い推理ですね」

 俺が考え込んでいるとワカさんが笑って言った。

「なに言うてんねん。推理はお前の仕事やないか」

桜火奇譚【1】文字消失事件20 柏木家

 柏木は学校を一週間休んだ。

 山本はすぐ様子をみに行ったらしいが、高熱で寝ているというので会えなかったそうだ。それから毎日通ったが一度も会えず、結局今日なら熱も下がって会えるだろうということで俺たちクラス委員を引き連れて柏木家に乗り込んだというわけだ。

 玄関先で柏木の父親とすれ違った。山本はよく知っているようで来意を告げて俺たちを紹介してくれた。三揃を着ているところを見ると着替えに戻ったのかも知れない。長身でスタイルがよく映画俳優のようだ。七三に分けた髪をポマードで固めている。

「よく来てくれはったな。成子も喜びますわ」

 見かけは映画俳優だがしゃべり方は大阪商人だ。

「きのうからようやく熱が下がりましてな。今は退屈しとります。決して人に移るような病気やあらしまへんよって心配せんといておくれやす」

 そういうと颯爽と立ち去った。ひょっとすると娘が心配で見に戻ったのかもしれない。

 通された応接間は模造暖炉のある洋間だった。ペイズリー柄の赤い絨毯の上にロココ調の応接セットが据えら、カットグラスのたくさん下がったシャンデリアが弱々しい光を投げている。ロココ調の大型柱時計の振り子の音だけが響いていた。

 しばらくするとパタパタとスリッパの音が聞こえてドアが軋みながら開いた。柏木はパジャマにガウンを羽織っただけの姿だった。俺たちまで来ているとは思わなかったようでドアを開いたものの入るかどうか逡巡しているようだ。山本が駆け寄ると柏木に抱きついた。

「ああ、よかった。元気そうで……」

 最後のほうは声を詰まらせている。それほど悪かったのかと今更ながら気がついた。

「ごめんね、心配かけて。でももう大丈夫やから」

 そういうと山本の背中をトントンと叩いてソファーに連れてきた。山本を座らせると自分もその脇に腰を下ろした。小さな柏木の体重で革張りのソファーが少し沈む。バランスを崩しかけて柏木は片手をついた。俯いた顔に前髪がかかった。髪からのぞいたうなじは青白く、病み上がりであることが痛いほど分かった。

「みんなもおおきに」

 柏木はそう言うと目を上げて俺をみた。

「観音寺君の言う通りやった。ごめんね、言うことをきかへんで」

 声がかすれている。長くは話せないだろう。

「コマはあれから出てけぇへん。どこ行ったか分からん。あれってうちの秘密が化けたもんなんやろ」
「ああ、そうや。あれは人の秘密が作り出したゴーストや」
「じゃあ、うちが秘密を明かせばコマも消えるんやね」
「そういうことになるな」

 柏木は目を逸らして唇を噛んだ。そしてフッと笑った。

「いややな、みんな。そんな大層な秘密やないで」

 そして俺たちのほうに向き直るとはっきり言った。

「わたしな、持病があるねん。心臓病でな。こどものときに一度手術したんや。でもまた再発するかもしれんのや。このことは両親とわたししか知らへん」

 山本が柏木の小さな肩を抱いた。柏木は肩に回された手を握った。

「マリ姉さんも同じ病気やったんや。そのせいで姉さんはインターハイ目前で選手をやめた。わたしは病気を内緒にして陸上部に入った。姉さんの代わりにインターハイに出るつもりやった。病状が進まなければ走ることはできるんや。だから姉さんにだけは知られたくなかった」

 そこまで言うと柏木は苦しそうに息を吐いた。

「大丈夫? もう休んだほうがええのと違う?」

 山本に背中をさすられて柏木はもう一度顔を上げた。そして両手を天井へ向けて背伸びをした。重いガウンが小さな肩から落ちた。山本があわててそれを柏木に着せている。

「ああすっきりした。これがうちの秘密です。こんな熱を出すようじゃ、しばらく走られへんし、もう姉さんも気づいてるやろから秘密でもないね」

 柏木は晴れ晴れとした顔で俺に向き直った。

「観音寺さん、これでもう金気の王様は出てけえへんのやね」
「まあ、そういうことになるな」
「良かった。学校は六月になったら行けると思うわ」

 そういうと柏木はにっこりと笑った。俺は事態がますます悪化していることに暗然とした。なぜなら柏木が最初にソファーに座ったそのときから彼女の脇にはコマが鎮座して俺を睨んでいたからだ。

桜火奇譚【1】文字消失事件19 喰われる

「絶対いやです」

 柏木はそう言うとそっとコマを引き寄せた。コマは手乗り文鳥のように柏木の手の甲から腕をかけあがり長い尻尾を彼女の首にまとわりつかせながら肩の上に座った。すでに小さなネズミくらいの大きさになっていた。そして上目遣いに四つの目で俺を睨んだ。

 いつものように大部屋に四人が揃ったところで俺は柏木にコマを手放すように話したところだ。初夏の暖かい風が吹き抜けている。

「なんや、そいつの正体が分かったんか」

 黒井がとりなすように聞いた。

「分からんことも多いがな。でも、それだけはっきり見えると言うんは尋常やない。しかもだんだん大きくなっとる。なんでや」
「なんでや?」

 黒井がおうむ返しに聞いてくる。柏木はきゅっと唇を噛んでいる。悪い予感がするのだろう。

「答えは簡単や。そいつが金気の王なら、食べるのは土気のものや」
「土気のもの?」
「そう、人間の体はものすご大きい土気や。そいつは柏木を喰うで」
「ヒッ」

 柏木が変な悲鳴をあげて口を押さえた。コマが低くうなっている。

「うそです」
「そうよ、まだ分からないことが多いんやろ。こんなに愛らしいのにナルを食べるわけないやん」

 山本が柏木に加勢した。

「だいたい、コマが大きくなってるんは、毎日ナルが文字を食べさせてやってるからやん」

 それはそうなのだ。そもそも金気の王がなぜ文字を食うのか分からない。

「そんなことを言って頭から食われてもおれは知らんで」
「うそです。そんなことありません。この子は誰にも渡しません」

 そう言いながら柏木は机の上に載せた手を握ったり開いたりした。動揺しているのだろう。コマが肩から飛び降りて柏木の手のまわりを跳ねている。かしわぎが手を開いた瞬間にとびかかると人差し指に食いついた。

 柏木が気がついて目を落とした。コマは人差し指の根元までくわえて柏木を見上げていた。そして指を加えたまま後ずさりした。柏木の手から人差し指が無くなっていた。柏木は声もあげずに気を失った。

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