2017年10月15日 (日)

桜のまちの物語【1】文字消失事件16

 図書館はしばらく休館して修理することになった。
 俺は修理中の図書館の手伝いをしていた。
 その合間にマリさんをバルコニーに連れ出した。

「コマを寄せたのはマリさんですね」

 彼女はいつものようにタバコをふかしている。

「あのゴーストはマリさんの記憶やったんですね。でもどうして検索カードなんかを」
「さすが探偵さんや、お見通しやね」

 マリさんは手すりにもたれて図書館を見上げた。
 六月の曇り空に図書館が魔女の塔のようにそびえていた。
 冷たい風が吹き抜ける。

「それはあの人が私に隠し事をしていたからよ」
「佐伯コレクションのことですか」
「そう。自分の著作を隠して誰にもその場所を教えなかった」
「待ってください。自分の著作とはどういうことですか」
「山本館長が佐伯佑馬そのひとなんよ」

 驚いた。
 これってみんな知ってることだったのだろうか。

「みんな知ってるわけやない。図書館関係のごくわずかな人間だけや」
「なんで名前を変えたんですか」
「公職追放されて、いわばお尋ね者なんよ。うちは私設図書館だから構わないんやけどね、世間体があるからって変えたそうや」
「世間体ですか」

 マリさんは二本目に火をつけた。
 目を細めて煙を吸い込む。
 ほつれ髪が風になびく。

「大人の事情やね。そのくせ自分の著作と資料は全部残したんや。どこに隠したのか私にさえ言わん。そのまま死んでしもうた。でも、これ見よがしな検索カードだけはあるんやで。それでいっそ消えてしまえと思ったんや。ほんまあほやろ」

 マリさんは長い溜息をつくように煙をゆっくり吹き上げた。

「でも、観音寺君がいてくれてほんま良かったわ。あのままやったらナルがどうにかなってしもた」
「もうあんなの出さないでくださいよ、ほんま頼みます」
「わかった」

 マリさんはそういうとニッコリ笑った。

桜のまちの物語【1】文字消失事件15

 しかし、柏木をコマを捨てることができなかった。
 学校へ連れてくることは無くなったが、次第にやつれていった。
 部活どころか学校も休みがちになった。
 コマが柏木を蝕んでいることは明らかだ。
 柏木はおどおどして俺と目を合わすことを避けていた。

 五月の終わりに俺はもう一度マリさんに相談することにした。
 その日は休館日だったが、マリさんは図書館にいた。

「ナルがゴーストに乗っ取られてるってこと?」
「まあ、そういうことです」

 図書館のバルコニーでマリさんは煙草に火を点けた。

「この後どうなるの?」
「あまり考えたくないですが、完全に憑りつかれると人格が崩れ始めます」
「……」
「多重人格か、もしくは生霊のたぐいに堕ちます」

 マリさんは輪っかにした煙を吹き上げた。
 それがゆっくりと立ち昇っていくさまを目で追いながらつぶやいた。

「こうなるとは思わんかったわ」

 俺はマリさんに柏木を観音寺に連れてくるよう頼んだ。
 あのたぬきおやじなら、白虎を払う術を知っているかも知れない。
 家に帰ったら状況を説明しておかなくちゃならんな。
 面倒なことになった。

「きょうナルはここへ来るよ」
「学校は休んでましたよ」
「おかしいね。朝、家は出てるんやけど」
「どうせ、どこかでコマと遊んでいたのでしょう」
「資料整理を手伝ってくれる約束なの。もうすぐだわ」

ドゴン!

 そのとき閲覧室から何かが壊れる大きな音が響いた。
 俺とマリさんが閲覧室に駆け込むと、ホールから入る大扉が倒れるところだった。
 コマが舞いたつ粉塵の陰にゆらめいていた。

 コマは大きさが数メートルに成長していた。
 面長の顔の左右に目が四つずつある。
 そして額にもうひとつの目がある。
 九つの目のあいだの原色の複雑な模様の上を電子のような白光がときどき走る。
 九は金気の完成形を象徴する。
 これが白虎の完成形なのか。

「ナル!」

 マリさんが叫んだ。
 コマの傍らに柏木が立っていた。
 コマを従えているようにも見える。
 目が虚ろだ。
 生霊なのかも知れない。

 コマはひらりと机に飛び乗った。
 そして軽やかな足取りで机の上を歩いてくる。

「ナル! 目を覚まして!」

 コマは止まって下を歩く柏木を見下ろした。
 柏木はコマを見上げてなにか言葉を発した。
 コマから雷光が発している。
 それに応じて閲覧室の点けていないはずの蛍光灯が一斉に明滅した。

「痛い!」

 小さな稲妻に打たれてマリさんが腕を押さえた。

ギュルルンッ!

 コマが咆哮した。
 柏木はうっすら笑みを浮かべる。
 だめだ、完全に憑りつかれている。
 コマは次第にカウンターに近づいた。

「だめや、あいつの狙いは佐伯コレクションや!」

 俺は呆然と立ち尽くすマリさんの手を引いて螺旋階段を駆け下りた。
 ものが壊れる音が上から聞こえてくる。

(どうしたら、ええんや)

 書庫は照明が点かなかった。
 螺旋階段を見上げると柏木の哄笑が聞こえてきた。

「あははははっ!」

 世界を滅ぼすようなぞっとした笑い声だった。
 人格崩壊が始まっているのだ。
 俺は成す術もなかった。

 コマが螺旋階段を降り始めた。
 コマの雷光で鉄骨階段の各部がスパークした。
 暗闇の中をコマと柏木はほのかな光に包まれて静々と進む。
 そして一階へ降りると、当たり前のように装丁室へ歩き出した。
 やはり佐伯コレクションは大金庫にあるんだ。
 このままじゃ佐伯の著作や資料がすべて消されてしまう。
 そのとき上階から青い帽子がゆっくりと舞い落ちてきた。
 柏木が図書館で文字を消したときの忘れ物だ。

(これを使えば)

 俺は青帽をキャッチすると、コマと柏木の前に回り込んだ。
 歩みを止めたコマは静かに放電を始めた。
 また雷撃を打つつもりだろう。
 俺は青帽を高々とそれを差し上げて回転させた。

フンッフンッ

 コマの九つの目が回る青帽を見ている。
 
「ほら、こっちやで」

 俺はゆっくり動いた。
 コマは眼を白黒させていたが首を左右に振りながらついてくる。

(しめた)

 おれはそのまま螺旋階段を回り込む。
 このまま表まで連れ出すつもりだった。
 シャフトの装飾ごしにコマがついてきているのが見える。
 完全に螺旋階段をまわりきったときコマが突然突進した。

(うわっ!)

 俺は吹き飛ばされて背中を本棚にぶつけた。

「いてっ」

 上からばらばらと本が落ちてくる。
 コマは俺を本棚に押し当てて青帽を取ろうとしている。
 コマの発する電撃が体を刺激して気が遠くなりそうだった。
 それでも青帽を渡すまいと手を左右上下に振った。

「マリさん!」

 マリさんが駆け寄ってくる。

「これを!」

 青帽を高々と掲げて軽く振る。

「外へ!」

 マリさんが手を伸ばしたときコマの体重で本棚が後ろへ倒れ始めた。
 次第に傾きながら俺はマリさんに青帽を渡そうとした。

ゴトン!

 本棚が後ろの本棚にぶち当たって傾斜が一瞬止まった。

「今や、マリさん!」

 マリさんはダッシュすると傾斜する本棚を駆け上がり俺の手から青帽を取り上げた。
 本棚は再び傾斜を始めた。
 後ろの棚も倒れ始めたのだ。

 マリさんは倒れていく本棚の上に仁王立ちになって俺たちを見下ろした。

ギュルルルン

 コマが咆哮し電光を発した。
 点かなかったはずの照明が次々と灯り、あちこちで蛍光灯が弾けた。
 書庫で花火遊びはやめてほしい。
 俺は背中が痛いのと電撃にしびれるのとで気を失いそうだった。
 
ゴトン、ゴトン

 本棚は鈍い音をたてながらドミノ倒しのように倒れていった。
 その波の上を青帽をかかげたマリさんが走りコマが追う。
 柏木がその後ろをゆっくり歩く。
 彼女はまるで本の波の上を歩いているようだ。
 最後の本棚が倒れ、ホールへ出る大扉をぶち破った。
 暗い書庫に光がさした。
 その中へマリさんとコマとそして柏木が光に解けるように消えていく。
 あたりはもう何の物音もしなかった。
 書庫は再び暗闇に包まている。
 俺は痛む体を本棚から引きはがし後を追った。

 ホールはまばゆい光に満ちていた。
 コマが床に伏せている。
 正面アーチのステンドグラスから舞い落ちた桜色の光がコマを包み込んでいた。
 満開の桜に包まれてコマは次第に消えていった。
 小さな雷光をパチパチと爆ぜさせながら。
 
カラン

 何かが床に落ちる乾いた音がした。
 俺はコマのいた場所でそれを拾った。
 それは一本の筆だった。
 白毛を束ねた穂首の大きい筆で竹軸に隈取のような模様が線刻され、そこへ青赤黄色の原色で彩色されている。
 これがコマだったのだ。

 マリさんが倒れているナルを抱き起した。

「ナル、起きて、目を覚まして」

 柏木はすぐに目を開いた。

「ここはどこ? 姉さま」

 何も覚えていないようだ。

「わたしどうしたんでしょうか。コマはどこですか」

 俺は柏木に筆を渡してやった。

「コマはここにおるで」

 柏木は受け取った筆がコマであることを察したようだ。

「もう害はないやろ」

 柏木は筆をぎゅっと抱きしめ、涙ぐみながら言った。

「ほんまありがとうございました、今度こそ大丈夫です」

 そして俺を見上げてにっこり微笑んだ。
 

2017年10月14日 (土)

桜のまちの物語【1】文字消失事件14

 保健室に入るとベッドに寝かされた柏木が天井を見上げたまま声をかけてきた。

「観音寺さん、民俗学的に見てこれは一体どういう意味があるのでしょうか」

 柏木はもう制服に着替えさせられている。
 まだ頭にコマを食いつかせたままだ。
 コマの四つの目がぎろりと俺を見る。

「コマはボールが好きなんやと思う」
「そんなことは分かってます」

 近づくとコマがうなった。
 柏木の額に牙が食い込み血が流れている。
 柏木は俺を見ずに話を続けた。

「このまま一生この子を頭に食いつかせたまま暮らさんとならんのでしょうか」

 まじめな顔でいうので思わず吹き出してしまった。

「笑い事やありません」

 泣きそうにそう言うと柏木は窓のほうに顔を傾ける。
 運動部の練習する声が聞こえてくる。

「また部活を休んでしまいました」

 さきほどまでの雷雨が嘘のように晴れて夕映が広がっている。
 柏木が気まずそうに言葉を継いだ。

「観音寺さんの仰るとおり、ゴーストとの共生は無理そうな気がしてきました」
「いいものを持ってきたからちょっと待っててや」

 柏木が初めて俺の方を向いた。
 目を合わすのは久しぶりな気がする。
 コマも白目を剥きながら俺をにらんでいる。
 こいつは最初からかわいくなかった。

 俺はギターケースを開いた。
 それは部室に昔からある古いアコースティックギターだった。
 昔、桜高に軽音部があったらしい。
 ひょっとしたらワカさんのギターかも知れない。
 
「なんですかそれ?」
「部室にあったんや」
「似合いませんね」

 柏木は弱々しく笑った。
 俺はそれほど嫌われているわけでもなさそうだ。

「ボブデュランでも弾いてくれるんですか」
「好きなんか」
「ええまあ多少」

 恥ずかしいのかまた夕焼けを見ている。
 俺がギターを持ち出したのはなにも柏木に下手なギターを聴かせるためではない。
 コマが本当に白虎であるなら弦楽器に弱いはずだからだ。 
 弦楽器は胴が空洞になっている。
 空洞な箱のようなかたちは火の性質を持つ。
 なぜなら易の火は「☲」と書くからだ。
 中が空洞になっている。
 だからギターを聴かせればコマはおとなしくなるはずである。

「どれだけ歩けばいいのだろう。人と呼ばれるまでは」

 チューニングしながら風に吹かれての一節をつぶやく。
 柏木が息を飲んで俺を見た。
 彼女が顔を背けたり振り向いたりするたびに頭に喰いついたコマがゴロンゴロンと揺れる。

「訳したのですか?」
「いいかい。今大事なのは風のなかの答えより、額にくい込む牙をいかに抜くかだ」
「はい」
「じゃあ、いくよ」

 俺はコマをにらんだつもりだったが、いつか柏木を見つめていた。
 そして「風に吹かれて」の最初のコードをゆっくりストロークした。

 効果てきめんだった。

 コマはそれを聴き終わる前に目をまわして柏木から落ちた。

(してやったり)

 僕は口元が緩むのを抑えることができなかった。
 
「なんで?」

 柏木は目を丸くしながら頭に手をやった。
 コマが離れていることを確かめると急に目に一杯涙を浮かべた。
 そして俺に背を向けて泣いた。

「どうしたん?」

 マリさんが入ってきた。
 妹に駆け寄るときに威勢良くコマを蹴飛ばした。
 コマはギャッと叫んで部屋の隅まで転がった。

「どうしたんナル、大丈夫」

 ナルの背中をさすりながら俺に困惑した目を向けた。
 この人、本当にコマが見えないのだろうか。
 なんと説明してよいか分からなくて俺は首を傾げるしかなかった。

「ククッ、クククククッ」

 マリさんの手が止まった。
 柏木の背中が小刻みにふるえている。

「ククッ、アフッ、フハハハハハ」

 柏木が笑いだした。

「アハッ、アハハハッ!」

 大笑いだ。
 おなかを抱えて笑っている。
 女子が大笑いしているのを俺は初めて見た。

「アハッ、アハッ、ごめん、おかしい」
「どうしたん、ナル、大丈夫」

 ひとしきり笑ったあとで柏木は俺のほうを向いて言った。

「ありがとうございます、観音寺さん。わたしはもう大丈夫です」

2017年10月13日 (金)

桜のまちの物語【1】文字消失事件13

柏木とはあれ以来話していない。
部室にもぱったりと来なくなった。
 完全に無視されている。
 俺は忠告はしたのだからあとは柏木の問題だ。

 柏木は毎日コマを連れて登校するようになっていた。
 最初のころは遠慮がちだったが、誰にも見えていないことに気づくと次第に大胆になった。
 コマは柏木の後を追って教室まで入ると机の下にもぐって丸くなって寝ていることが多かった。

 コマはさらに大きくなった。
 手のひらサイズだったのが五月も半ばになると子犬ほどになった。
 ふさふさの尻尾を振って人懐こいのは前のままだが、四肢が逞しくなり顔付きも変わった。
キツネのように口元が尖っている。
こいつは本当に白虎なのだろうか。

 最初のころは歌舞伎の隈取のようなもようの左右に小さな赤い目がひとつづつだった。
 いまは切れ長の目が左右にふたつずつある。
 四ツ目なのだ。
四は金気を象徴するのでやっぱり白虎か。
ひたいから鼻先まで原色の不思議な模様がある。
青と黄色と赤と黒で、やはり隈取りに似ている。

 その日は大雨だった。
 そのせいで、いつもは男女別の体育授業が同じ体育館だった。
 体育館の屋根が雨音にうなるように鳴っていた。
 体育館のまんなかにネットが引かれ男女それぞれがバスケのクラス対抗戦をしていた。

 マリさんがホイッスルを鳴らした。
 ボールが高く上がる。
 いつものように男子はみな女子コートを見ている。
 柏木がセンターで次々と指示を出す。
 自分もくるくるよく動いて相手チームをかく乱する。

 俺は常々バスケは頭脳戦だと思っている。
 相手の裏をかくことで隙を突き一気に攻め込む。
 そのためにはチームがひとつの生物のように柔軟に動かねばならない。
 柏木のチームはその点よく動いていた。

 とくに味方を名前ではなくコードネームで呼び合っているのがおもしろい。
 タチバナとかヒマワリとか呼んでいる。
 これだと相手方にこちらの動きを悟られにくい。
 柏木の発案だろう。
 策士である。

 試合は柏木のチームの優勢だった。
 気になることがあった。
 コマがボールを追いかけているのだ。
 大きなしっぽをなびかせながら右へ左へと走っている。
 ボールと人とコマの動きが混じる。
 雷鳴が聞こえていた。
 雨足がひときわ高まり体育館が雨音に包まれる。 

「サクラ! 行くよ!」

 スモールフォワードからシューティングガードへボールが遠投された。
 柏木のコードネームはサクラのようだ。
 コート上の人がつられるようにボールのほうへ向く。
 相手のディフェンスに穴が開いた。

「よし!」

 柏木がキャッチするのとボールとコマが入れ替わるのが同時だった。
 柏木は入れ替わったことに気づかずコマを掴んでその場で一回転するとチームメイトのコードネームをを呼んだ。
 そして相手の方を見ずにコマを投げた。
 投げてからあっと言って立ち尽くした。

 柏木の指示が止まっても味方の動きは止まらなかった。
 切り込んだパワーフォワードにセンターからコマがパスされる。
 フォワードは受け取ると同時にジャンプしてゼッケンを揺らしながらシュートした。

「あああ」

 柏木が両手を伸ばしてシュートされるコマを追いかけた。
 コマはくるくる回転しながら落下してリングに当たって跳ねた。

グワン!

 リングが楽器のように音をたてた。
 高く跳ねたコマは柏木めがけて落ちてきた。
 そして彼女の脳天を直撃した。
 その刹那コマは柏木の頭に喰いついていた。
 見ていた誰もが柏木がボールに直撃されたと思った。
 柏木はしばらく呆然と立っていたが、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。

桜のまちの物語【1】文字消失事件12

 自転車を押して坂を上がる途中、観音堂の前でワカさんと会った。
 ワカさんはお堂の戸締りをしているところだった。

 観音堂は広場に面した小さなお堂で、その脇に樹齢千年と言われる桜の老樹がある。
 山桜だ。
 その下に古い井戸がある。
 桜湊が開かれたときのものとも言われている。
 広場は三角形をしていて、その一片を漁協の古い建物の裏側が占めている。
 斜面なので、漁協の二階が広場に面していた。
 これが黒井の家だ。

「こんばんは」
「ああ、オリ君か。ちょうどええとこに来たな。ちょっと手伝ってんか」

 ワカさんは当たり前のようにに僕にホウキを渡す。
 掃除をしろということか。
 このお堂はワカさんの家の持ち物だ。
 ワカさんの家は港に面した坂倉造酢という酢の醸造元だ。
 ワカさんはその何代目かの跡取りだ。
 日頃の管理はワカさんの役目らしい。
 ちなみに俺の家の観音寺は行者系の宗派でこのお堂のお祀りも担っている。

 ワカさんが厨子を開いた。
 お線香に火を点けて鉦を叩いた。

リン

 涼やかな音色が堂内に反響する。
 俺は思わず如意輪観音の真言を唱える。

オンバラダハンドメイウン

 ここのご本尊は仏像ではなく仏画だ。
 波に洗われる岩の上に如意輪観音が立つ。
 その手に桜の一枝があるので桜観音と呼ばれている。
 高さ2メートルくらいの結構大きな絵だ。

 厨子の後ろは饅頭食いでいっぱいだった。
 饅頭食いは青い着物を着ておかっぱ頭のこどもの土人形で小さなものから大きなものまでたくさんある。
 両手に半分に割った饅頭を持って薄ら笑っている。
 この人形にはいわれはこうだ。

 あるとき親が父と母のどちらが好きかとこどもに尋ねた。
 こどもは持っていた饅頭をふたつに割って、どちらがうまいかと尋ね返したそうだ。
 比べることはできないということを婉曲に言ったわけだ。
 それはそんなことを訪ねる親をやんわりと諫める気持ちもあったのだろう。
 それから饅頭食いは賢いこどもの代名詞となった。
 そして賢い子が授かりますようにと願うとき饅頭食いを供える風習が始まったという。

 観音さまに願いを懸けて堂内の饅頭食いを一体借りていく。
 願いが叶ってそれを返すとき新しい土人形を一体添える習わしだ。
 堂内が饅頭食いであふれているということは、
 月にロケットが飛ぶ時代になってもまだ桜観音の信仰は生きていることの証だ。

「俺はな、ここが好きでな。こどもの時分からな」

 ワカさんは厨子の扉を閉めながらつぶやいた。
 そして、ろうそくの火を消しながら独り言のように言った。

「最近、マリ姉のようすが変なんや」
「えっ、柏木じゃなくて」

 ワカさんはふっと含み笑いをすると話を続けた。

「白本事件は収まってるじゃないか。お前がナルを見てくれてるからやないんか」
「なんや、知ってたんですか」
「そのことと関係があるのか分からんが、実はもうひとつ図書館から消えたものがあるんや」

 俺は白紙の検索カードを思い出して息を飲んだ。

「廃棄された佐伯先生の蒐集した資料の検索カードや」
「やっぱり。あれは佐伯コレクションのカードやったんですね」

 ワカさんが驚いて振り返った。

「なんやお前、もう見つけたんか。さすが探偵やな」
「俺は探偵やなくて行者です。ていうか廃棄されたんですか?」
「表向きはな。なにせ日本帝国の国粋主義をリードした思想家の資料や。いくら私設図書館とはいえ置いとくことはできん」
「……」
「でも山本館長はな、処分せずに全てを隠したらしいんや」
「ちょっと待ってください。検索カードが白紙になったのはいつですか」
「四月やったな。閲覧室の図書が白化するより前やった」
「図書館で最初に消えたのは青本ではなくて検索カードやったと言うんですか」
「そうや」

 図書館の隠し蔵書。
 行方不明の佐伯コレクション。
 謎の大金庫。
 全てを知る館長の突然の死。
 文字を消すゴースト。
 そして最初に消えた検索カード。
 俺は謎を解くカギが揃い始めたことを感じていた。

「マリさんはなんと?」
「マリ姉にこのことを聞いても何も答えへん。黙ってうらめしそうに俺をにらむんや」

 俺は柏木ににらまれていたころを思い出した。
 にらむというのはSOSのつもりだったのかも知れない。

「それはマリさんが生粋の佐伯党やからじゃないですか」
「佐伯党って海賊のか。まあ柏木家は佐伯党のまつえやからな」

 それは初耳だった。
 海賊の血筋だったのか。

「俺はな、消えたカードと佐伯コレクションの行方不明とがリンクしているような気がしてならないんや」
「なるほど。それは良い推理ですね」

 俺が考え込んでいるとワカさんが笑って言った。

「なに言うてんねん。推理はお前の仕事やないか」

桜のまちの物語【1】文字消失事件11

「見ていてください、おもしろいですから」

 その日、柏木は机の上に商店街のチラシを広げた。
 格子状に区分けされたマス目に商品名と値段が書かれている。
 手書き文字をロウ紙印刷したものだ。
 チラシの真ん中に商店街の名前があり、それを桜の花びらが取り囲んでいた。

 コマは尻尾を振りながらチラシのまわりを走りまわり、まず一番手前の枠に喰いついた。
 足を踏ん張って文字を吸い込む。
 文字は流れてコマに吸い取られていった。
 ひと枠分を飲み込むとき少し進んで次のマスに口をつけた。
 いくつか飲むとまたチラシをのまわりを走り回って別のところから吸い始める。
 そうやって中央の商店街のタイトルだけ残して全てのマスを飲み尽くすと次は1本づつ罫線を吸い始めた。
 うどんでもすするようにチュルチュルと1本づつ一気に吸っていく。
 勢いよく吸い込まれていく罫線の端がクルクルと跳ねた。

「文字以外のものも吸えるんだな」
「ここからです。よく見ていてください」

 柏木は目を輝かせながらコマのようすを見ている。
 ほぼ白紙になった紙の中央に商店街の名前だけが残っている。
 コマはそのまわりをクルクル回っているだけでなかなか口をつけない。
 そのうち低く構えるとうなり始めた。

「なぜうなるんだ」
「食べたいけれど食べられないものがあるみたいです」
「数学みたいなものか?」
「いえ、数式も一応は食べるんです。あとで戻しますが」
「じゃあこれは何にうなってるんだろう」
「それがよく分からないんです。商店街のチラシのときには必ず最後にうなるんです」

 コマはひとしきりうなっていたが、そのうち前足で残った部分を叩きだした。
 パシッと叩いてはすぐに手を引っ込める。

「これって、花びらを嫌がってるんじゃないか」
「そう言えばそうですね」

 コマのパンチは花びらのすぐ横を叩いてはいたが、そのうち花びらを直撃するようになった。
 そのまま何度も花びらを必死で叩いてはいたが、
 突然、印刷された桜の花が白銀色に瞬き始めた。
 ひとつづつの花が、ゆっくりと回転しながら一斉に上昇し始める。
 扁平な花弁の下に細い糸のような茎がつながりやはり銀色に光っている。
かすかに精妙な音楽が聞こえる。

 俺たちは目前で始まったゴーストを声もなく見つめていた。
 コマは花を見上げてガウガウ言いながら茎のあいだを駆けまわった。
 花は二度三度輝くと白銀の花粉のようなものを撒き散らせた。
 雪のように舞い落ちる花粉をあびてコマはころっとひっくりかえった。 
 そして白い腹を見せて動かなくなった。
 腹を見せる犬のように転がって舌を出して荒い息をついている。
 目をまわしたようだ。

「こんなの初めてです」

 柏木はおそるおそるコマの腹をさすっていたが、手のひらにつまみあげて背中をトントンと叩いた。
 目の覚めたコマは目をパチクリさせている。
 クウクウ鳴きながら柏木の手のひらに鼻を擦り付けていたが、そのうち丸くなって眠ってしまった。

「唐獅子ボタンやね」
「なんですかそれ」
「金気のもんは火気が苦手なんや。花は火気だから金気のコマにとっては天敵や」
「金気ってなんですか?」

 やれやれそこからか。
 俺は金気の王たる白虎のことを教えてやった。

「それにしてもお前、部活はいいのか」
「いいんです」

 五月晴れの空の下、運動部の掛け声が聞こえてくる。
 柏木は窓から目をそらして唇をかんでいる。

「言いにくいのなら言わなくてもええが、こいつが現れたんはお前の記憶と関係があると俺は思っとる」
「え!?」
「ゴーストは持ち主を失った記憶なんや。それが独り歩きしている」
「……」
「文字を喰う意味はよく分からへんが、こいつが金気のゴーストで木気を克しているのは確かやろう」

 コマが柏木を見上げて首をかしげている。
 俺は言葉を継いだ。

「民俗学的に見た場合、克される木気は通常は疫病だ」
「えっ!」

 柏木は思わず立ち上がっていた。
コマが驚いて広い机の上を走り回っている。
 柏木は立ち上がったまま固まっている。
 こいつは驚くとこうやって固まるようだな。

「まあ、座れや」
「はい」

 俺は話を続けた。

「なにもかもが分からない。でもこいつが金気の王であるなら、そしてお前のなかに病魔があるなら、それを喰ってくれるかも知れない」

 柏木は目を伏せて俺の話を聞いている。

「でもな、そいつがお前になついているのは土気であるお前の体を喰っているからやないかと俺は思う」
「えっ!」

 今度は立ち上がらなかった。

「金気の王は土気から生まれるんや。そいつが大きくなるのは土気が供給されてるからやろう」

 柏木の唇が何かを言おうと動いたが、それは言葉にならなかった。

「だから、そいつがいかに可愛かろうと、このままではあかん。早いうちにそいつから離れた方がええ」
「嫌です!」

 今度は立ち上がった。
 そして俺を睨みながら言った。

「この子は誰にも渡しません!」

 柏木はコマを掴むとそのまま特別教室を飛び出していった。
 あいつは逃げ足は速いのだ。

「あほなやつや」

 俺は机の上のチラシを拾い上げた。
 もう元のチラシに戻っていた。

(今度こそ嫌われたな)

2017年10月12日 (木)

桜のまちの物語【1】文字消失事件10

 民俗研の部室は「大部屋」と呼ばれる屋上の旧特別教室にあった。
 階段室の脇にある細長い教室で、そこからは海がよく見えた。
 元は防空官制室だったという。
防空管制ってなんだ?

 いくつかの弱小文化部がこの部屋を共有していた。
 大きなテーブルが10台ほど並び、そのひとつひとつが各部に割り当てられていた。
 民俗研はこの部屋の一番奥だ。
 そして部員は俺ひとりだ。
 弱小部はあまり活動しておらず、ここには俺ひとりだけいることが多かった。
 
 連休が明けてから柏木は小さなゴーストを見せにここへ来るようになった。
 ゴーストはコマと名付けられていた。
 そいつは柏木によくなついていた。
 これが見えるやつなど俺たちの他にいなかったが、やはり人のいるところでは出しづらいのだろう。
 その点、ここなら心配いらないわけだ。

「だって、狛犬やないですか」
「まあ、似たようなもんやと思うけど」
「ならいいやないですか」

 俺はこのゴーストは白虎だと思っている。
 木気を殺す金気の王たる白虎

「ちょっと大きくなったやないか」
「よく食べるんです、この子」

 彼女はノートの文字を喰わせていた。
 コマは足を踏ん張って鼻を鳴らしていたがおもむろに文字を吸いだした。
 文字がノートの上を渦を巻きながら流れる。
 罫線だけ残して文字が消えていく。
 白化するノート。

「でも数式は食べません」

 喰わせるものをいろいろと試しているらしい。
 消えた文字は何かショックを与えると元に戻った。

 ひとしきり食べたコマを摘まみ上げて手のひらに載せると背中をポンポンと叩いている。
 コマの体長は手のひらサイズになっていた。

 ゲフッ

 コマは小さなゲップをひとつした。
 吐き出された黒い糸くずのようなものが机の上を転がった。
 よく見るとそれは文字の破片がからみあったものだった。
 広げると細くて平らな黒糸のようなもので、漢字の部首やひらがなの一部などが交じり合っていた。

 僕は思いついて丸くなった消しゴムを机に転がした。
 思ったとおりコマはパッと身構えると盛大に尻尾を振りながらパタパタと消しゴムを追いかけた。
 消しゴムがあらぬほうへ跳ねると飛びつこうとしてずっこけた。
 柏木はそんなコマのようすをうっとり眺めていた。
 こいつ、こんな表情もできるんだ。

桜のまちの物語【1】文字消失事件09

連休最後の日、俺は書庫を探索していた。
白化本の一件以来、俺は書庫の出入りが自由になった。
蔵書の整理を手伝いながら、書架のあいだを徘徊した。
ここの蔵書は歴史系に特化していたが、
それでも私設図書館とは思えないほどの書籍を集めていた。
未登録のものも多く、それらを分類し登録するのがマリさんの仕事だった。

書庫はこの一階と地下一階の二層になっていた。
各階とも書架で埋め尽くされている。
四メートルほどの天井の下に三メートルほどの書架が並んでいた。
一方の壁には玄関ホールに通じる大扉があった。
その反対側に装丁室の大扉がある。

装丁室には修理待ちの文献の並ぶ書架と表装用の大机があった。
かつて山本館長は自ら文献の裏打ち修理待ちをしていたという。
道具と和紙とノリもそのまま残っている。
俺も装丁を覚えたいものだ。

装丁室の奥に大金庫があった。
三メートル四方ほどもある大きな扉だ。
誰も開け方を知らない。
マリさんは、この中に不明になっている文献類があるのではないかと話していた。
山本館長がここを出入りがしていたらしいからだ。

装丁室の隣に通信室と札の下がった部屋があった。
中には古い木製の分類カード入れが十台ほど並んでいた。
旧分類の蔵書カードらしい。
ひとつの抽斗(ひきだし)を開けてみる。
しかし、どのカードも白紙だった。
他の抽斗も開けてみたが、ここにあるカードはすべて白紙だった。

桜のまちの物語【1】文字消失事件08

 結局、ゴーストは柏木が連れて帰った。
 そうするのが当たり前のような顔をしていた。
 俺はただあっけにとられるだけだった。
 ゴーストも不思議だったが、それよりそれを普通に連れて帰る女子のほうが不思議だった。
 
 さて、あれは一体なんなのか。
 ゴーストは持ち主を失った記憶の破片だと俺は思っている。
 あのゴーストが柏木に現れた以上、彼女自身の記憶である可能性が高い。
 たとえば、忘れようとしても忘れられない記憶がゴーストになることもある。
 これは生霊のたぐいだ。
 本人とは別の生き物として独り歩きを始める。
俺はマリさんには話しておこうと思った。
 やれやれ、面倒に巻き込まれたものだ。

翌日、俺は図書館の装丁室で柏木のゴーストのことを話した。

「そうやったんかぁ」

マリさんはゴーストの話をすんなり受け入れてくれた。
 この突拍子もない話に少しは疑念を抱かないのだろうか。
 この姉妹はゴーストに慣れているのか。
 マリさんは、脱力したように天井を見上げて溜息をついた。

「でも何? その変なゴースト」
「まだよく分かりません」
「ナルは取り憑かれているわけでしょ、大丈夫やろか」
「それも不明です」
「ちょっと外へ出ようか」

 マリさんは俺をバルコニーに連れ出した。
 スモックの内ポケットから煙草を取り出す。
 赤いパッケージに桜のマークの「チェリー」だった。
 それをうまそうにくゆらせる。
 
「煙たくしてごめんね。山本先生がヘビースモーカーやったんやわ。わたしもそうなってしもうた」
「山本先生って前の館長さんの?」
「そう、急に亡くなったから行方の分からない資料もあるんやわ」
「ひょっとして佐伯先生の資料も」
「そうね、どこかにあるとは思うけど、見つからなくて」

 マリさんはそう言うと、彫刻のほどこされた石の手すりにもたれてベネチアンゴシック様式の図書館を見上げた。
 この図書館には初代館長佐伯の資料が残されている。
 著作だけではなく彼の集めた郷土史に関する膨大な資料があるはずだ。
 それが行方不明とはショックだ。

「見つかりますよ、きっと」

 俺は自分に言い聞かせるようにそう言った。
 そして柏木のゴーストの話の続きをした。
 おそらくあれは金気のもので木気を克す。
 いったい柏木の何を克すというのか。
 
 通常、金気によって克される木気は疫病だ。
 流行り病を「カゼ」というように、疫病は風に運ばれて伝染することは古代から知られていた。
 風は木気に配される。
 風に揺れる樹木を見ていると、木は風と親和していることが分かる。
 だから風は木気に配当されるのだろう。 

「実はね、あの子自分が病気だと思っているのよ」
「……」
「まあ、病氣というほどのもんとは違うんやけど、ちょっと心臓がね。スポーツをやってるとそういうことがあるんよ」
「そんな風には見えませんでした」
「本人が隠してるからね」

 病気の不安を押し隠していたからあんなに盛大な黒い気を吹いていたのか。
 その挙句に金気のゴーストを生み出したというのか。

「そのことと短距離の記録が落ちていることと結びつけてしもて」
「五十メートル五秒でですか!」
「そうや。まあストップウオッチ計測は誤差が大きいからね」
「あんなに速いのに」
「高校に入ってから記録が落ちたは確かやわ」
「そうですか」
「でもそれはね、体が成長しているから仕方がないんや。いったん落ちた記録もそのうちまた伸び始める」
「そういうもんですか」
「わたしも選手だったから分かる。でもあの子は病気と結びつけてしもて悲観してるんやわ」

 マリさんは深いため息を落として戻っていった。
 灰皿に残った吸殻には桜色の口紅が淡くついていた。

2017年10月10日 (火)

桜のまちの物語【1】文字消失事件07

 柏木は毎日図書館に来ていた。
 俺の入った後から入館するようで気が付くと閲覧室にいることが多い。
 俺からもっとも離れた席に座るので気づきにくい。
 俺が座る場所を変えると、そこからもっとも遠い場所でなおかつエレベータの陰になる席を慎重に選んで座る。

(それで隠れているつもりか)

 どういうつもりなのか。
 しかもそっとこちらをうかがう気配がある。
 見張られているようで居心地が悪い。

 連休も半分が過ぎた。
 マリさんに出してもらった佐伯佑馬の著作はなかなかおもしろかった。
 皇国史観をリードした歴史家らしい強引なところがあるが、それも彼の魅力だろう。
 なにより郷土に対する愛が深い。
 俺も佐伯党になっていいかもしれない。

 その日は朝から雨だった。
 雨音が人の少ない閲覧室に響く。
 遠くで雷が鳴っている気がする。
 あたりが暗くなって雨足が強まった。

 柏木は熱心になにか読んでいる。
 また青い本じゃないだろうな。
 今日の彼女は白いシャツに青いカーディガンを羽織っている。

(やっぱり青や)

 うつむいているので表情は見えない。
 こうやって見るとやっぱりお人形のようだ。
 教室の彼女はいつも微笑んでいる。
 怒っているところなど見たことがない。
 そうした人当たりの良さが彼女の人気の素(もと)だ。
 でも先日の教科書を突き付けてきた剣幕を見れば、本当の彼女はもっと激情家なのではないか。

(あれ?)

 どうもおかしい。
 顔は伏せたままだがページをめくるようすがない。
 じっとうつむいたまま動かない。
 ひょっとしてまた黒い気を吹いているんじゃないだろうな。
 そう気づいて俺は眼鏡を拭いて目をこらした。

 暗くて気づかなかったが、彼女から天井まで黒い霧のような気が充満していた。

(やっぱり)

 また本を白化したに違いない。
 俺は立ち上がり机のあいだをすり抜けて彼女の元へ急いだ。


 彼女の前に立ってみると、どう声をかけたものか少し迷った。
 でもやっぱり変だ。
 思い切って声をかける。

「大丈夫か?」

 返事がない。
 よく見ると肩を震わせている。

「気分でも悪いのか? マリさんを呼ぶか?」

 マリさんを呼ぼうとカウンターのほうを振り返ったとき手をつかまれた。

「行かないでください」
「はっ?」
「……たすけて」
「?」 

 ようやく上げた顔は真っ青で唇からも血の気が引いている。
 涙をいっぱい浮かべた瞳で俺を見つめる。
 本を見るとまだちゃんと活字はそこにあった。

「なんや、文字あるやないか」
「違うんです。文字じゃないんです。目なんです」
「め?」
「そう……これ」

 彼女が目で示したページの上に小さな赤い目があった。
 俺もぞっとした。
 ふたつの目玉はバラバラに行間を泳いでは彼女と俺とを交互に観察していた。

「なんやこれは」
「分からないです」

 目はしばらくページの上を泳いでいたが、そのうちお互いに寄り添うとページの端へ移動した。
 彼女は気味わるげに本をから手を放した。
 目はページの端まで来ると二、三度まばたきをした。
 


 現在進行形でゴーストが始まっていた。
 ゴーストについてある程度は知っているつもりだったが、こんなのは初めてだ。
 いったい何が起こっているというのか。

 ページの端から小さな獣の鼻先が出た。
 次にネコのような小さな白い足が出た。
 俺たちは驚き過ぎて声も出なかった。

 頭を出したそいつは体をくねらせて全身を本から引き出すと机の上にとんと飛び降りた。
 それは長さが三センチほどの真っ白な狛犬のようなゴーストだった。
 狐のような大きな尖った耳を持ち、尻尾は羽扇子のように広がってふさふさしていた。
 全体は白いのだが、顔だけは極彩色で隈取られて、いかにもゴーストらしかった。
 それはヨチヨチ歩くと本の上に飛び乗り柏木を見上げた。

クシュッ!

 そしてくしゃみをした。

「……かわいい」

 柏木が小さくつぶやいた。

(かわいい?)

 俺は心底驚いた。
 今まで数々のゴーストを見てきたが、そのおぞましい姿をかわいいと思ったことなどない。
 今、目の前のこいつも決してかわいいわけではない。
 
 俺たちは顔を見合わせた。
 柏木はもう安心したような表情だった。
 彼女が僕を掴んでいた手に気づいてパッと離した。

「観音寺さん、これって何のゴーストですか」
「知らんよ」

グワァ

 ゴーストはあくびをした。
 顔がむけるかと思うほどの大あくびだ。
 赤い口のなかに白い牙が上下四本生えているのがよく見えた。
 これまで見てきた虫ケラのようなゴーストとは全く似ていなかった。

(やれやれ)

 最近ゴーストを避けていたのにこんな形で関わるとは思わなかった。
 このゴーストが彼女の記憶と関係しているのなら、それに俺は関わってしまったわけだ。

 俺たちの見ている前でゴーストは本の端まで下がると両足を踏ん張りページの上に口をつけた。
 そしてゾゾゾッと文字を吸い込み始めた。
 ページ上の文字はまるで墨流しの絵のように幾筋もの線と化してそいつに吸い込まれていった。

(こいつが妖怪文字すすりだったのか)

 俺たちがあっけにとられている間にそいつは見開き二ページ分の文字をすすってしまった。

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