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2007年5月

2007.05.28

07 断片化する武田 / 大典記念京都博覧会門柱(京都市)

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 こいつはなにか。場所は京都の岡崎公園内、平安神宮前のグランド横である。いつのころからか気になっていたが、その後の調べで1915年に岡崎公園で開かれた「御大典記念京都博覧会」の会場ゲートの門柱であることが分かった。博覧会の写真帳が出版されており、それに写っていたのである(大典記念京都博覧会事務局編「大典記念京都博覧会写真帳」1915年)。この博覧会は武田五一設計のパビリオンが並んだ。なんだやっぱり武田じゃん。と思って自分のなかでは決着していたがのだが、改めて見直すと、いろいろおもしろいことが分かったので報告しておこう。とりあえず今回の謎は「この物体の作者はだれか?」ということでよろしく。

 よく見てみよう。レンガの胴体の上に石組みの柱頭(ちゅうとう)が載っている。とてもよくできている。一番上の四角いところに電燈のポールが立っていた。石組みは入念に加工されておりただものではない。たとえば、軒(のき)のように突き出した水平部分の底に雨垂れを切るための溝が彫られている。これは様式建築の窓台のつくりかただ。雨水を切って壁面を保護するための処理である。この作者は建築の素養を有している。
 特徴的なかまぼこ屋根のカーブが、門柱に優しい表情を与えている。この半円モチーフは、すぐ近くにある武田設計の府立図書館(1909年)の壁面モチーフと同じだ。かつて図書館前に立っていた掲示板にもこのモチーフが使われていた。増殖するモチーフ。この作者は、府立図書館に敬意を払っていることは間違いなかろう。

 もうひとつ注目したいところは、胴体部分のレンガの模様張りだ。こうした模様張りは、ありそうであまりない。ここは矢羽根(やばね)になっている。弓矢の矢の羽根のところだ。京大時計台で見たように、矢羽根は武田の好むモチーフのひとつだ。やっぱり武田だぁ。とこうなる。

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 整理してみよう。武田の設計した博覧会会場の門柱であり、府立図書館のモチーフを踏襲し、あまつさえ武田好みの矢羽根模様をつけている。これらのことを総合的に勘案した結果、この門柱は武田自身がデザインしたと結論づけた。ほんとによくできている。だれが見ても武田だと思うだろう。しかしながらこれは武田作品ではない。なぜか。

 この博覧会の会場設計を武田が担当したと言ったが、よく調べると全部ではないことが分かる。博覧会後に勧業館として残された本館の設計は京都府とある。武田の設計したのは閉会後解体されるパビリオンだけだったのだ。そう思って門柱をよく見ると武田らしくないところが見えてくる。

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 第1に特徴的かまぼこ屋根。半円と言ったが、よく見ると半円よりも大きい。屋根の端が水平になっているが、これがかまぼこの中心より下になっている。武田ならこうはしない。府立図書館は図のように水平部分が円の中心より上なっている。こうしたほうが水平方向へ開いたかたちとなる。門柱は反対に垂直を強調したデザインだ。

 第2に照明が小さ過ぎる(写真参照)。なぜ?というほど小さい。プロポーションを重視する武田ならもっと大きな照明をつけるだろう。
 第3に、そもそも門柱が小さ過ぎる。写真で見るとゲートの幅は15メートルはあるように見える。門柱の高さは照明の上まで入れても3メートルちょっと。つり合わない。会場にはもう一種類の門柱があるが、こんな風に武田なら門の幅に見合った高さの門柱にするのが普通だ。

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 そして第4。これが決めてとなった。お分かりだろうか。そう、武田ならレンガにしないのである。銀橋で見たように、武田がレンガを使うのは本当にレアケースなのだ。レンガを使うときには必ず周辺にレンガの建物がある。岡崎公園にはそれが無い。こいつだけが紅い顔をして立っている。

 ということで、こいつの作者は武田以外のだれかだ。およそ京都府関係の建築家、たとえば亀岡末吉とか。この先はわたしには分からない。いずれにせよ彼が武田の図書館に敬意を表していたことは確かだ。かつて岡崎公園には武田作品がたくさんあった。そのまわりにこいつのような武田物件が増殖していく。それは武田の持ち込んだウイーン風デザインに魅了されたものが多かった証だ。武田作品に触発され、広がるエコーのようなデザインの連鎖。今となっては岡崎公園の武田作品も武田物件もごくわずか。それでもまだかすかに残っている残響のひとつがこいつなのである。

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2007.05.21

06 像山碑の謎 | 象山先生遭難之碑(京都市)

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 幕末、大阪から京都へ荷を入れるとすればどんなコースがあるか。当時、物流の主役は船だ。淀川をさかのぼり、伏見から高瀬川へ入る。今の市役所の東あたりが運河の終点。終点までの数キロが港町となっており、運河の西側に諸大名の藩邸が立ち並んでいた。東側は木屋町通りと呼ばれる問屋街で、通り名にあるように材木問屋が多かったようだ。木屋町通りの後ろに先斗町の花街があった。高瀬川沿いは業務地域なので、夜半は人目がなかったらしく暗殺事件が続いた。松代藩士・佐久間象山(しょうざん、1811ー1864)も、ここで命を落としたひとりである。

 彼は江戸で名をあげた洋学者のひとりで、専門は砲術および兵器製造である。彼の門下生は多く、勝海舟や吉田松陰など。明治初期に京都の文明開化を支えた元会津藩士・山本覚馬(かくま)も門下生のひとりである。

 象山没後50年(1914年)を機に、終焉の地に碑を立てる計画が持ち上がった。浜岡光哲や田中源太郎ら京都財界のリーダーたちがこぞってこれに賛同した。なぜなら、彼らは山本覚馬の門下生だったからだ。というわけで、われらが武田五一のもとへ記念碑設計の仕事が転がり込んだ。ちょうど武田は大正天皇の即位大典(1915)の準備で大忙しのころだ。

 武田は、この仕事を受けたときに即座にアイデアが浮かんだことだろう。それはなぜか。その謎を解く前に、記念碑をよく見ておこう。台座の上に壁が立ち、そこへ肖像メダルがはめ込まれているスタイルだ。これはパリやウイーンの墓地公園にあるような墓碑のスタイルである。

 壁は三本の柱に分割されており、中央が大きい。頂上が丸くなり、側面に丸に三の家紋が入る。どこかモーターを思わせる形は、象山が兵器製造に携わっていたことからの連想だろうか。両端の柱には羽のような装飾がついている。これは羽根ペンだと思う。武田のデザインした木下京大総長銅像台座にも同じものがついている。ペンで学者を表わしたのだろう。かつては、この羽飾りの下にブロンズ製の鉢が置かれていた。これは花鉢だろう。花を供えるための鉢だ。やっぱりこれはヨーロッパ風の墓碑なのだ。

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 さて、武田はなぜ即座にアイデアを思いついたか。これは簡単だ。象山の名前がそれを示す。「象」は音読みで「かたどる」。つまり形づくるという意味。象山というのは松代の山の名前だが、そんなこと構わず名前を読めば「山をかたどる」と読める。だから武田は。「山」という字をそのまま記念碑のかたちにした。という、うそのようなアイデアだったのだ。またもや武田の江戸趣味的な諧謔(ユーモア)が発揮された、とわたしは考えるわけだ。

 さて、世紀末ウイーンの都市改造をリードしていた建築家オットー・ワーグナーは「近代建築」という本のなかで、記念碑について触れている。都市の美観を決めるのは広場と街路である。そのために記念碑の果たす役割は大きい。ただし、これまでのような銅像主体の記念碑は近代都市に似合わない。肖像は控えめにして「構造形態」を重視せよ。構造形態というのがよく分からないが、ともかくこの記念碑はワーグナー先生の教えどおりなのだろう。

 武田は記念碑単体をデザインするに留まらず、パリやウイーンの近代的な都市風景を再現したかったように見える。このころの武田は、欧米のスタイルと和のテイストがかわるがわる現れて混じりあっていく。この碑が欧米の墓標をかたどりながら、どことなく日本の墓石のイメージがあるのはそのためだと私は思う。武田のデザインの変遷は、日本探しの旅なのだ。

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2007.05.09

05 時計台の謎ふたたび|京都大学時計台(京都市)

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 時計台のもうひとつの謎はその配置にある。武田は単純な幾何学的処理によって建物のかたちや敷地内の配置を決めている場合が多い。この時計台の形やキャンパス内の配置を武田はどうやって決めたのだろうか。これが今回の謎である。

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 まず時計台(旧本部本館)のかたちと周辺マップを確かめておこう(上図参照)。時計台の前には、京大のシンボルとなっている大きなクスノキがある。徳富蘇峰の父・徳富一敬が寄贈したものだそうだ(ただし現在は二代目)。植樹年代はよく分からないが、だいたい1922年ごろ。旧本部本館が焼けたのは1912年だから、これが植えられたときその北側は空き地になっていたわけだ。
 大クスの前には正門。ほかの古い建物は、時計台の北側に法経済学部本館(1933ー38)、西側のレンガづくりの旧三高校舎(1889)、南側に旧電話交換室(1925ー36)と旧車庫(1936)など。
 一見して分かるように、時計台、大クス、正門が直列している。これが大きなヒントだ。

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 わたしが最初に考えたのは、門と大クスと時計塔とが等間隔に並んでいるのではないかということだった(上図参照)。大クスを中心に武田はキャンパス計画を構想したのではないか。この考えは、ある意味正しくある意味間違っていたが、とりあえず推理を進めてみよう。
 武田は方眼紙の上で構想を練ることが多い。つまり正門から大クスまでの距離の当てはまる方眼紙を想定すれば、武田がなにを基準に時計台のかたちや配置を決めたのか分かるのではないか。そう考えて描いたのが次図である。

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 どうもしっくりこない。確かにこの方眼紙だと時計台のタテの線はぴったりだ。しかも西側の旧三高のラインも方眼に載ってくる。あながち間違っているわけでもなかろうが、肝心の時計台のヨコの線が合わない。方眼をいろいろ調整してみるのだが合わない。どこか推理の過程で見落としがあるのだ。どこが間違っていると言うのだ。わたしの推理は行き詰まり、本件は迷宮入りかと思われた。捜査は振り出しに戻ったのである。

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 もう一度、時計台のかたちをよく見てみよう(上図参照)。武田らしい単純な決め方をしているはずだ。まず気づくのは、四角い部分が同じ大きさの長方形6つで構成されていることだろう。北側の円形教室の部分も、その長方形の長辺を半径とする円のように見える。どうやら武田は、この長方形を基準に時計台のかたちを決めたようだ。この長方形はなにか。ああそうだった。わたしは、なぜこんな重要なことを見落としていたか。もうお分かりだろうか。そう、これは黄金比なのである。

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 この長方形を延長すればずべてがおもしろいように納まった(上図参照)。武田は正方形方眼を使わず、黄金比方眼を使っていたのだ。おそらく、この長方形を8等分したものが最小単位。車寄せは2単位で塔は1単位だろう。これなら塔の平面が正方形でない理由も分かる。
 時計台の前庭は、大クスで左右に分けられるが、東西それぞれの前庭も黄金比となる。そして大クスそのものも、前庭の正しく中心に納まるのである。やはりこの大クスが計画原点だったわけだ。
 南側の電話交換室や車庫は前庭の外に配置されており、北側の法経済学部もこの方眼上にあるように見える。武田はこの黄金比方眼紙を京大全体のキャンパス計画のベースに使おうとしていたのかも知れない。

 後年武田は、土木学会の講演で若い構造家たちに橋梁の美について語ったことがある。そのとき黄金比を「ダイナミックシンメトリー」として紹介している。ダイナミックシンメトリーとは自然界に見られる物理的な黄金比数列のことであり、人間の美意識に関係するらしい。このダイナミックシンメトリーを橋梁設計に当てはめれば、構造的に正しくしかも美しいデザインが生まれるというわけだ。
 この法則を武田はキャンパス計画に使ったわけだ。おそらく時計台の立面もダイナミックシンメトリーになっているのだろう。正しくあれ、そして美しくあれ。つまりこの時計台は、武田が弟子たちに示した黄金律だったというわけだね。

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2007.05.05

04-03 銀の橋の謎 付論|桜宮橋(大阪市)

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 ひとつ最初に断っておかねばならない。銀橋は構造家と建築家との合作だと武田は言う。それは、橋の本体を構造家が作り、建築家がこの階段塔を作った、というわけでは決してない。この階段塔はもっぱら建築家のデザインであることは間違いないが、武田の本意は大アーチ本体をデザインすることにあった。アーチのディテールを見れば、そこここに意匠的な配慮がほどこされていることは見てきたとおりだ。

 さて、階段塔である。よく見てみよう。屋根下の角のところに照明のようなものがはまっているのがかっこいい。このあたりモダンデザインだ。その下に「ロマネスク調」と言われたアーチがある。このアーチが、図のように正方形の対角線の交点を中心とする円であるという幾何学的処理が、いかにも武田的だ。アーチの縁を丸く仕上げたところ(写真)は武田らしくない古典的な納まりのように見える。ただし、全体の「あっさり感」は、この階段塔のデザインに武田の手が直接入っていることを思わせる出来映えと言えよう。


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 この階段塔が不思議なのは、レンガを使ったこと。モダンデザインを指向しながら、なぜレンガを使い、あまつさえ古典的なレンガの納まりを使ったのか。これは武田の言う「周辺との調和」のためとわたしは思う。橋の左岸は鐘紡の紡績工場群、右岸は造幣局。どちらもレンガ造りの工場街だ。それを通り抜ける国道1号線が、銀橋の大アーチのろっ骨の中を走り抜ける。レンガ色の階段塔は橋の付属物というより、工場街の付属物として風景に溶け込んでしまう。それがレンガを使った意図だろう。

 元来、武田がレンガもしくはレンガタイルを使うときは、既存のレンガ建物に合わせる場合が多い。同志社大学のレンガに合わせた同志社女子大。京大土木学科校舎に合わせた建築学科、とか。この場合もそうだったとわたしは思う。


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 では、なぜこんなところに「階段」があるのか。これが、この階段塔の本当の謎である。そもそも階段塔を付属する橋は、武田たちの関わった大阪の数多くの都市計画橋梁の中で他には無い。ここだけ、なぜ階段塔があるのか。

 これは非常におもしろい謎なのだ。

 階段はもちろん橋から下へ降りるためにあるのだが、下に何がある? そう、階段を降りた河川敷には、1923年開園の桜ノ宮公園があるんだね。大阪市の都市公園も武田の指導が入っている。これが左岸。そして右岸は造幣局。もう、お分かりだろうか。銀橋は階段塔を備えることによって、右岸の造幣局の桜の通り抜けと左岸の桜ノ宮公園の桜並木とをつなぐのだ。

 武田の意図は明らかだろう。銀橋によって、天満橋から桜宮駅までの長大な桜回廊が出現するのだ。そもそも銀橋の架かる旧淀川水面は「青湾(せいわん)」と呼ばれた名水地だった。桜もまた名水と関係が深い。たとえば秀吉の醍醐(だいご)の花見で有名な京都・醍醐寺の「醍醐」とは、山深くに湧き出る名水「醍醐水(だいごすい)」に由来している。そこはとてつもなく古い水神信仰の聖地だ。ここ青湾もまたそうした聖地のひとつだった。

 武田は「大阪の橋」というエッセーでこう語る。

 「桜宮橋はあの広い河面に橋杭を建てることが出来ないと云う使用上の必要から下路式鋼拱にしたのである」(旧漢字を当用漢字に改めた、「上方」1931.06.01)

 鋼拱の鋼は鉄、拱はアーチを指す。下路式とはアーチの下に道路のある形式。つまり銀橋のスタイルだ。ここで注意したいことは「使用上の必要」。架橋の際の「使用上の必要」としてまっさきに考えられるのは舟運の確保である。

 江戸時代に、青湾は大阪の桜の名所となる。ここの桜は、地上から見るほかに屋形船から眺めるという楽しみが加わった。水上庭園都市らしい楽しみ方だ。ここまで考えてくれば、武田の考えは明らかだろう。武田は、青湾の遊覧水面を保全するために銀橋を巨大アーチとした。そして、階段塔を設けることで桜の回廊を出現せしめた。なんと雄大な計画だろう。水上庭園都市の伝統を守りながら、近代産業都市の都市門に相応しい巨大モダン橋梁を架ける。「 The Silver Bridge in tha Blue Bay 」 これが武田が銀橋でプロデュースしたかったコンセプトだったようにわたしには見える。


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