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2007.05.21

06 像山碑の謎 | 象山先生遭難之碑(京都市)

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 幕末、大阪から京都へ荷を入れるとすればどんなコースがあるか。当時、物流の主役は船だ。淀川をさかのぼり、伏見から高瀬川へ入る。今の市役所の東あたりが運河の終点。終点までの数キロが港町となっており、運河の西側に諸大名の藩邸が立ち並んでいた。東側は木屋町通りと呼ばれる問屋街で、通り名にあるように材木問屋が多かったようだ。木屋町通りの後ろに先斗町の花街があった。高瀬川沿いは業務地域なので、夜半は人目がなかったらしく暗殺事件が続いた。松代藩士・佐久間象山(しょうざん、1811ー1864)も、ここで命を落としたひとりである。

 彼は江戸で名をあげた洋学者のひとりで、専門は砲術および兵器製造である。彼の門下生は多く、勝海舟や吉田松陰など。明治初期に京都の文明開化を支えた元会津藩士・山本覚馬(かくま)も門下生のひとりである。

 象山没後50年(1914年)を機に、終焉の地に碑を立てる計画が持ち上がった。浜岡光哲や田中源太郎ら京都財界のリーダーたちがこぞってこれに賛同した。なぜなら、彼らは山本覚馬の門下生だったからだ。というわけで、われらが武田五一のもとへ記念碑設計の仕事が転がり込んだ。ちょうど武田は大正天皇の即位大典(1915)の準備で大忙しのころだ。

 武田は、この仕事を受けたときに即座にアイデアが浮かんだことだろう。それはなぜか。その謎を解く前に、記念碑をよく見ておこう。台座の上に壁が立ち、そこへ肖像メダルがはめ込まれているスタイルだ。これはパリやウイーンの墓地公園にあるような墓碑のスタイルである。

 壁は三本の柱に分割されており、中央が大きい。頂上が丸くなり、側面に丸に三の家紋が入る。どこかモーターを思わせる形は、象山が兵器製造に携わっていたことからの連想だろうか。両端の柱には羽のような装飾がついている。これは羽根ペンだと思う。武田のデザインした木下京大総長銅像台座にも同じものがついている。ペンで学者を表わしたのだろう。かつては、この羽飾りの下にブロンズ製の鉢が置かれていた。これは花鉢だろう。花を供えるための鉢だ。やっぱりこれはヨーロッパ風の墓碑なのだ。

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 さて、武田はなぜ即座にアイデアを思いついたか。これは簡単だ。象山の名前がそれを示す。「象」は音読みで「かたどる」。つまり形づくるという意味。象山というのは松代の山の名前だが、そんなこと構わず名前を読めば「山をかたどる」と読める。だから武田は。「山」という字をそのまま記念碑のかたちにした。という、うそのようなアイデアだったのだ。またもや武田の江戸趣味的な諧謔(ユーモア)が発揮された、とわたしは考えるわけだ。

 さて、世紀末ウイーンの都市改造をリードしていた建築家オットー・ワーグナーは「近代建築」という本のなかで、記念碑について触れている。都市の美観を決めるのは広場と街路である。そのために記念碑の果たす役割は大きい。ただし、これまでのような銅像主体の記念碑は近代都市に似合わない。肖像は控えめにして「構造形態」を重視せよ。構造形態というのがよく分からないが、ともかくこの記念碑はワーグナー先生の教えどおりなのだろう。

 武田は記念碑単体をデザインするに留まらず、パリやウイーンの近代的な都市風景を再現したかったように見える。このころの武田は、欧米のスタイルと和のテイストがかわるがわる現れて混じりあっていく。この碑が欧米の墓標をかたどりながら、どことなく日本の墓石のイメージがあるのはそのためだと私は思う。武田のデザインの変遷は、日本探しの旅なのだ。

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