04-02 銀の橋の謎<解決編>|桜宮橋(大阪市)
これはアーチの付け根のヒンジだ。ものすごくでかい。でかくてかっこいい。ヒンジというのは、ようするに蝶番(ちょうばん)のこと。銀橋は3(スリー)ヒンジアーチの珍しい事例として知られている。両岸の2ケ所のほかに、アーチの頂上に1ケ所これがついている。
3つのヒンジがあるので、この橋は横に伸びることができる。地盤が軟弱なため、この大アーチは沈下を前提に設計されている。左右両岸で沈下速度は違うだろう。そのため、沈下とともに水平だった橋は傾斜する。そのとき3つの蝶番が動いて橋を伸ばすのである。ホントかよ!という嘘のような設計をしているのだ。
講演録で武田は、ヒンジを隠してはいけないと言う。ここはアーチ橋の見せ場なのだ。武田は言う。昔は歴史的意匠によって美しい橋を作っていたが、これからは「構成的表現法」が美しい橋をつくる。武田の言う構成的表現法とはなにか。
「鉄骨構造又は鉄架構の交錯叉は吊橋等の構造材の錯綜せる部分に一種説明し難き美しさがあり、或は蜘蛛の巣の組み合わせに一種の魅力を認めることが出来る」
つまり、鉄骨の梁の繰り返しや吊り橋のはり巡らされたワイヤーの美しさを言っている。前回写真の銀橋の鉄骨もこの「一種説明し難き美しさ」だろう。おもしろいことに、この講演の時点で銀橋はまだ完成していない。講演は1929年1月。銀橋は1928年5月に着工、1930年9月完成。現在建設中である日本一のアーチ橋の意匠設計者として武田は登壇したわけだ。
構成的表現法が自在に使われるとき、建築芸術と肩を並べる「橋梁芸術」が誕生すると武田は言う。全国の若い構造設計者を前に、それを作るのは君たちだ、と熱いメッセージを送っているのだ。いつも沈着冷静な武田が、なにゆえこれほど熱く未来を語るか。
ああ、そうだった。武田は今は亡き親友の構造学者・日々忠彦とともに鉄筋コンクリートや鉄骨造の実験的実践をしてきたのだった。構造学と歴史学の融合は武田のライフワークだったと言わせてもらおう。
1920年代、欧米諸都市にはこうした構成美にあふれたモダン橋梁が陸続として誕生していた。「アメリカに於ける大きな橋梁。或はドイツのライン河に架せられる新しい橋梁、その他パリー、ロンドンの大都会にかけられる橋」を武田は引き合いに出す。それに続けというわけだ。そのためには、ともかく建築家と組め、と武田は言う。大阪の銀橋は構造家と建築家の組んだ事例というわけだ。
武田が銀橋をどう考えていたのか、だんだん分かってきたろう。欧米諸都市のモダン大橋梁を都市門と呼ぶなら、武田は銀橋をそうしたものにしたかったのは間違いないようにわたしは思う。
さて、今回の謎解きはここで終わっても良かった。ただ、この件については続きがある。階段塔の謎だ。武田の思惑どおりモダン橋梁として誕生した銀橋だが、その両岸にレンガタイルを貼った「ロマネスク風(「近代建築ガイドブック[関西編])」の階段塔がついている。見ようによっては場違いにも見えるこの謎に満ちた階段塔。ついでにこの塔の謎も解いてみないか。
(つづく)
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