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2007年4月

2007.04.29

04-02 銀の橋の謎<解決編>|桜宮橋(大阪市)

0402

 これはアーチの付け根のヒンジだ。ものすごくでかい。でかくてかっこいい。ヒンジというのは、ようするに蝶番(ちょうばん)のこと。銀橋は3(スリー)ヒンジアーチの珍しい事例として知られている。両岸の2ケ所のほかに、アーチの頂上に1ケ所これがついている。

 3つのヒンジがあるので、この橋は横に伸びることができる。地盤が軟弱なため、この大アーチは沈下を前提に設計されている。左右両岸で沈下速度は違うだろう。そのため、沈下とともに水平だった橋は傾斜する。そのとき3つの蝶番が動いて橋を伸ばすのである。ホントかよ!という嘘のような設計をしているのだ。

 講演録で武田は、ヒンジを隠してはいけないと言う。ここはアーチ橋の見せ場なのだ。武田は言う。昔は歴史的意匠によって美しい橋を作っていたが、これからは「構成的表現法」が美しい橋をつくる。武田の言う構成的表現法とはなにか。

 「鉄骨構造又は鉄架構の交錯叉は吊橋等の構造材の錯綜せる部分に一種説明し難き美しさがあり、或は蜘蛛の巣の組み合わせに一種の魅力を認めることが出来る」

 つまり、鉄骨の梁の繰り返しや吊り橋のはり巡らされたワイヤーの美しさを言っている。前回写真の銀橋の鉄骨もこの「一種説明し難き美しさ」だろう。おもしろいことに、この講演の時点で銀橋はまだ完成していない。講演は1929年1月。銀橋は1928年5月に着工、1930年9月完成。現在建設中である日本一のアーチ橋の意匠設計者として武田は登壇したわけだ。

 構成的表現法が自在に使われるとき、建築芸術と肩を並べる「橋梁芸術」が誕生すると武田は言う。全国の若い構造設計者を前に、それを作るのは君たちだ、と熱いメッセージを送っているのだ。いつも沈着冷静な武田が、なにゆえこれほど熱く未来を語るか。

 ああ、そうだった。武田は今は亡き親友の構造学者・日々忠彦とともに鉄筋コンクリートや鉄骨造の実験的実践をしてきたのだった。構造学と歴史学の融合は武田のライフワークだったと言わせてもらおう。

 1920年代、欧米諸都市にはこうした構成美にあふれたモダン橋梁が陸続として誕生していた。「アメリカに於ける大きな橋梁。或はドイツのライン河に架せられる新しい橋梁、その他パリー、ロンドンの大都会にかけられる橋」を武田は引き合いに出す。それに続けというわけだ。そのためには、ともかく建築家と組め、と武田は言う。大阪の銀橋は構造家と建築家の組んだ事例というわけだ。

 武田が銀橋をどう考えていたのか、だんだん分かってきたろう。欧米諸都市のモダン大橋梁を都市門と呼ぶなら、武田は銀橋をそうしたものにしたかったのは間違いないようにわたしは思う。

 さて、今回の謎解きはここで終わっても良かった。ただ、この件については続きがある。階段塔の謎だ。武田の思惑どおりモダン橋梁として誕生した銀橋だが、その両岸にレンガタイルを貼った「ロマネスク風(「近代建築ガイドブック[関西編])」の階段塔がついている。見ようによっては場違いにも見えるこの謎に満ちた階段塔。ついでにこの塔の謎も解いてみないか。

(つづく)
 

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2007.04.25

04 銀の橋の謎|桜宮橋(大阪市)

Ginbashi

 これは銀橋(ぎんばし)。大阪城の北側、旧淀川にかかる鉄橋で、正式名称は桜宮橋(さくらのみやばし)。アーチ部分は104メートル。1930年に完成、当時日本最大のアーチ橋だった。そのころ各地では、都市計画法に基づいて橋のかけかえが進められていた。ここ大阪では、市役所の橋梁課がその任に当たっていたわけだが、それを指導していたのが武田五一だ。大阪の橋は、武田の考えに従って、他都市とは違うモダニズムの領域へ進むことになる。この銀橋は、彼ら武田グループの代表作のひとつというわけだ。

 以前から気になっていることがある。武田はこの橋を都市門として構想したのか、という謎だ。大阪を貫流する旧淀川にアーチ橋は多いが、ほとんどが道路下にアーチを隠している。銀橋のように道路上に高々と鉄骨を上げているのはふたつ。上流の銀橋、下流の堂島大橋だけだ。ふたつの鉄橋が大阪の入口に当たる場所にかかっている。これは大阪の都市門ではないか。

 大都市では橋が門の役割を果たすことが多い。サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ、ニューヨークのブルックリン橋、ロンドンのタワーブリッジ。いずれも大がかりな工業化社会の到来を印象づける巨大橋だ。産業革命を経験した諸都市はそろって、そんな都市門をもっている。武田グループは、そうした都市門に銀橋をなぞらえたのではなかったか。

 武田たちがアーチを隠したかった理由は、橋の上からの眺望を重視したためだ。橋の上に何もないほうが眺めが良い。この眺望重視の考えは、江戸時代の水上遊覧文化が背景にあるとわたしは思う。ヨーロッパ諸都市でも眺望の良い橋は多い。水上遊覧の文化は西洋にもあったわけだ。

 ただし、ヨーロッパ諸都市では水面と地上との距離がもっと大きい。大阪はほとんど海抜0メートルみたいなところだから、道の下にアーチを仕込むのはけっこう大変なのだ。事実、武田グループが手掛けるまで旧淀川の長い橋はほとんど汽車の鉄橋のようなトラス橋だった。

 武田グループは無理を承知でアーチを隠した。だから天神橋などは、ものすごく扁平なアーチになっている。リンボーダンス型と名付けてもよい。それはそれでおもしろいのだが、とにかく武田グループは道の上にあるじゃまものを消去したかったのである。それでも、このふたつだけ大アーチとした。偶然にしては、できすぎている。

 銀橋をもう一度よく見てみよう。この橋の見どころは多いが、わたしは恐竜のろっ骨のような鉄骨を見上げたこの構図が好きだ。繰り返しと変化、しかも鮮やかな銀色。とてもきれいだ。よく見てほしい。部材と部材の取り付け部分がすべて曲線になっている。これは見られることを配慮した結果だ。見えないなら、こんな面倒な加工をわざわざする必要はない。この橋はすみずみまで念入りにデザインされている。全体のプロポーション、部材の間隔、各部の取り付け方。この橋はどこから見ても美しいように計算され尽くしているのだ。これが武田たちの仕事である。

 武田が橋梁美について語った文章がある。わたしが大阪の橋のことを話したら、とたんに悪いきつねさんがサルベージしてきてくれた。彼こそ武田研究の重宝部員だ。その文章は土木学会での講演録。この中に謎を解く鍵が隠されていたのである。

(つづく)

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2007.04.20

03 白浜温泉の謎|崎の湯(和歌山県白浜町)

Sakinoyu

 さて、どこから話をしたものか。今回は推理と言うより失敗談のたぐいだろう。つまり資料はよく読め、ということだ。

 この建物は和歌山県の白浜温泉にあった。武田五一の設計、というか考案だ。崎(さき)の湯は白浜温泉でも有名な海に面した豪快な露天風呂。ひょんなことから、どうやら武田が白浜温泉で仕事をしたらしい、と分かった。和歌山のことを調べていたときに、なにかの本の前書きに、武田にこの仕事を頼んだとかいうくだりを発見。すぐに悪いきつねさんに垂れ込んだわけだ。悪いきつねさんは、すぐさま現場調査を実施し、現存はしないが、当時の資料をサルベージした。さすが悪いきつねさんだ。

 資料とは「白浜温泉史」の該当記事と当時の写真である。この写真を見て驚いたわけだ。室生(むろう)寺にそっくりだったから。室生寺は女人高野と呼ばれる古刹(こさつ)。奈良県と三重県の県境に位置する。金堂は図にあるように、ひわだ葺きの優しい屋根で、わたくしの大好きな仏堂のひとつだ。この仏堂に崎の湯の建物がそっくりだったわけだ。これが今回の謎。なぜに和歌山県の温泉が、奈良県の古寺の姿をしているのか?

 どこが似ているのか確かめておこう。

 図にあるように、どちらも斜面に建っていることが共通している。室生寺は、江戸時代に舞台を増築したそうだ。それに合わせて屋根を今のかたちに改造している。舞台の上にさしかけられた庇(ひさし)は、そのときに継ぎ足されたのだろう。この庇が、ちょうど帽子をまぶかに被ったような表情を建物に与えた。顔を伏せながら、こちらをうかがうような感じ。ようするにおもしろくなったのである。

 その特徴を崎の湯は踏襲している。海に面して帽子のつばのような庇をさしかけている。残された写真では側面しか分からないので、正面も似ているかどうかは、正直なところ分からない。しかし、側面を見るかぎりよく似ている。武田が室生寺を念頭において、この建物を考案したことは動かしがたいようにわたしには見える。

 では、なぜに武田は室生寺に似せたのか? どちらも斜面という立地が共通していたからか? でも、弟子が「なぜ室生寺なんですか?」と尋ねたとき、「斜面だからだよ」というだけでは全然武田っぽくない。なにかもっと江戸趣味的な洒落気がほしい。

 崎の湯には観音さまが祀られていたらしい。室生寺は女人高野だから、当然観音信仰の聖地である。ならば、観音信仰が共通していたから武田はこうしたのか。でも「観音信仰の聖地だからだよ」というのも洒落にはなっていない。ならばなぜ?

 実は、答えはすでに与えられていたのである。それは、もうひとつの資料「白浜温泉史」に書いてあったのだ。そのことに気づいたのは、この図を書いてから6年後だった。その記事の出だしはこうだ。

 「湯崎の西端、荒磯の先きに天然の大きな岩凹があり、この中に湧く珍しい温泉。岩凹は東西に6m37、南北に3ないし1m7である。」

 ここまで読んで、後を読んでいなかったのだ。建築探偵たるもの、資料はちゃんと最後まで読むべきだと思う。続きはこうなる。

 「往昔、この岩凹の温泉がゆけむりを挙げていたのが、海上から認められてムロの温湯とよばれ、飛鳥のころ朝廷にも知られたものだろうという。(後略)」

 はい、ここまで。なんて分かりやすいのだろう。崎の湯には「ムロの湯」と言う別名があったのだ。どうして最初に資料をちゃんと読まなかったのだろう。読んでおれば、ただちに謎は解けたであろうに。

 武田はこの別名を聞いて、室生寺を連想したわけだ。表の理由としては、斜面に建つ伝統的な建築で、しかも観音信仰の聖地をモデルとする。そして、裏の理由は「ムロ」という表記の共通性。表裏そろって武田流の洒落が成立するわけだ。いかにも武田らしいわかりやすさ。こうした分かりやすい洒落にしてみせることは、建築プロデュースのための重要な条件であるようにわたしは思う。説明しやすいし、造型の意味を共有しやすい。そして、楽しい。やっぱり武田作品は楽しくなくっちゃ。

※ 追加報告(070430)
今回、建築探偵M氏から、この建物を正面から見た絵はがきを見せてもらった。正面から見ても室生寺そっくり。やっぱりね。図では建物の中に湯船があるように描いたが、湯船は建物の前の岩場にあった。ということは建物は脱衣場なのだろうか。面倒なので図は訂正しないのでここで報告しておく次第。Mさんありがとう。

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2007.04.16

02 時計台の謎|京都大学時計台(京都市)

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 現場は京都大学の時計台。正面左右の壁に描かれた模様はいったい何か? これが今回の謎である。

 この時計台は謎が多くてとても好きだ。もともと代表作の無かった武田に対して、弟子達が今度こそ代表作にしてくださいと総出で仕上げた作品と言われている。総出で仕上げておいて代表作というのもおかしな話だが、代表作を弟子が贈るというのも僭越(せんえつ)だろう。この話は弟子たちが師に贈った最大のユーモアととらえるべきだ。

 わたしはかねがね思っているが、建築プロデュースにかけて武田の右に出るものはない。弟子たちが安心して遊んでいられるのも、武田あってのことだと思う。わたしの武田イメージは、赤鉛筆で弟子の図面を修正している姿だ。くるくると直していく。それを弟子たちが目をきらきらさせながら見ている。そんな光景だ。代表作を贈るという遊びは、そうした師弟の信頼関係がベースにあると考えなければ意味がない。これは武田の代表作なのではなく武田グループの代表作なのだ。

 そんなわけで、この時計台にはいろいろと不思議なところがある。その最たるものとして、この模様がある。壁面いっぱいに描かれていながら、同系色のため忍者のように隠れている、というところもとてもよろしい。諸君には、これがいったい何に見えるか?

 最初は花模様かと思った。新しい時計台に花を添えた、というわけだ。それなら学歌「紅萌ゆる丘の花」に通じる小ばなしとして一件落着となる。でも、よく見てみたまえ。これが果たして花だろうか? これはどう見ても風車(かざぐるま)だろう。

 よく見てみよう。この図案は3段階で構成されていることが分かる。

 第1段階。まず枠がある。四隅に正方形を45度傾けて打つ。この正方形はおそらく薔薇(ばら)模様。枠の四隅に正方形を置くやり方は、コロマン・モーザーのウイーン分離派展ポスターにそっくり。このあたりのデザインはウイーンわたりの武田式そのもの。だからこそ、この模様は武田の手がかかっていると思う。

 第2段階。中心に棒が1本。上端は風車の中心となる。上下の端部はともに枠の角から45度斜めの位置にあるのがお分かりだろうか。このあたりの幾何学的処理も武田らしい。注目してほしいのは、棒の下端が正方形になっていること。そのほかのところが全てM字型になっていることとの違いは大きい。やはりM字型は矢羽根を表わしていると考えるのが自然だろう。

 第3段階。矢羽根(やばね)を8本取り付ける。風車と言っても、鯉のぼりの竿の先に付いている矢車だ。矢羽根は弓矢の矢の羽根のところ。だから端がM字型になる。下向きの矢は棒と重なっていて分かりにくいが、ちゃんとM字は描いてある。このあたり、芸が細かい。さらに芸が細かいのは矢羽根の4つが一筆書きになっていることだ(図参照)。4つ1組で2組ある、という設定らしい。そう言えば、鯉のぼりの矢車はドラムの両側に4つで1組の矢羽根が一組づつ付いている。ほら、だんだん風車に見えてきただろう?

Tokeidai02

 問題なのは、なぜ風車なのかということ。言い換えたほうが分かりやすいだろう。この風車は何の風を受けているのか? もうお分かりか? この答はひとつしかない。それは京大のいわゆる「自由の学風」である。「自由の学風」は1900年に着任した法学部教授・高根義人らが提唱したと言われる。学生自ら問いを立て答を導く、というドイツ式の近代教育法だそうだ。そう言えば、武田グループが総出で仕上げたこの現場も、「自由の学風」的教育の一環だったと言えるだろう。この風車は、そんな京大の学風を受けてくるくると回っているのである。

(弟子)すると先生、鯉のぼりの鯉は僕たちだってことですね!
(武田)(赤鉛筆を止めて)それはどうゆう意味かね。
(弟子)決まってるじゃないですか。鯉は滝を登って龍になるんですよ!
(武田)まさか登竜門とでも言うのではあるまいね
(弟子)失敬しました! 井戸の中のカエルでした!
(一同)あははははは

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2007.04.12

01 仮面の謎|先斗町歌舞練場の蘭陵王(京都市)

Pontocho_1

 これはとても興味深い謎である。現場は京都の先斗町歌舞練場(ぽんとちょうかぶれんじょう)。その屋上に大きな舞楽面の飾りが据えられている。瓦製でけっこう大きい。同じものがいくつもある。この舞楽面は「蘭陵王(らんりょうおう)」なのだそうだ。なぜ蘭陵王なのか。

 少し説明しておくと、鴨川に面するこの劇場は1927年大林組の設計施行で完成。設計者は大林設計部のホープ・木村得三郎(当時37)。大阪松竹座を完成させた直後のことで、大林組への発注はその実績を買われてのことだろう。そのまま進めば、第2の松竹座が誕生したと思われる。松竹座は道頓堀へ大きなアーチを向けた純洋風建築だ。この劇場がそうならなかったのは、ひとえに設計顧問についた武田五一(当時55)のせいだと思う。

 この建物はいたるところに和風モチーフがちりばめられている。武田は古社寺修復を通して和風モチーフの復興を果たした建築家だから、こうしたデザインはお手のものだ。その総仕上げ的モチーフとして、この蘭陵王は屋上で目を剥いているわけだ。

 なぜ蘭陵王なのか? 蘭陵王は納曽利(なそり)と並ぶ舞楽の主要演目のひとつ。舞楽は日本芸能の始まりとされているわけだから、歌舞練場の屋上に蘭陵王があることに不思議はない。では、武田たちは芸能の始まりを示すものとしてこれをデザインしたのか?

 わたしの考えでは理由はそれだけではない。

 よく見てみよう。頭上の小さな動物は龍である。蘭陵王は龍王の化身とも考えられ、雨乞いの舞いとされた。そのしるしの龍である。頭の後ろには翼がある。蘭陵王の仮面には、こうした翼をもつタイプもあるそうだ。飛竜という意味だろうか。蘭陵王は激しい踊りなので、その吊った顎や目玉がくるくる動く。そうした躍動感が、この飾り瓦にはよく表現されている。なかなかすばらしい美術作品だ。おもしろいのは、どことなくイタリア仮面喜劇のコンメディア・デッラルテの道化パンタローネを思わせるところ。和風でありながら洋風に見えるのはどうゆう魔法か。それはさておき、ここで注目してほしいのは舞楽面の両端に控える2個の鼓(つづみ)である。芸能の始まりを示すだけなら、この鼓は不要だろう。なぜ鼓があるのか。その理由(わけ)はこの町の地名伝説にある。

 先斗町の「ぽんと」の意味は実はよく分かっていない。起源説に諸説あるが、鼓説もそのひとつ。先斗町は鴨川と高瀬川にはさまれた細長い町だ。両端が川である土地、それは両端が皮である鼓と似ている。皮と皮にはさまれて「ぽん」と打つと「ぽん」と響く、だから「ぽんと」町(ほんとかよ!)、というものだ。武田はこの説を知っていたのだろう。武田はこうゆう江戸趣味的な洒落(しゃれ)が大好きだ。だから蘭陵王の両脇に鼓を添えたというわけである。川に挟まれた蘭陵王、これがこの飾り瓦の意味だろう。つまり先斗町のシンボルとして蘭陵王はある。

 できすぎている。

 鼓に蘭陵王というモチーフは元から先斗町に伝わっていたのかも知れない。ただし、わたしの推理には続きがある。蘭陵王は川に棲む龍神でもあるのだから川との相性は良い。そのことは水の都ベネッツィアと呼応している。ベネッツィアのシンボルは羽の生えたライオンだ。呼応しているのは翼だけではない。風水説では東方の守護霊獣は青龍(せいりゅう)、西方は白虎(びゃっこ)。有翼の獅子を白虎になぞらえれば、東西ふたつの古都が芸術の都として並び立つことになる。そう考えれば、この蘭陵王がパンタローネの面影を宿している説明もつく。道化パンタローネこそベネッツィアの商人だったのだから。

 まあ、武田たちがそこまで考えたかどうかは知らないがね。

(木村)先生、なんですか? この丸いのは?
(武田)(赤鉛筆で図面を修正しながら)この敷地は川にはさまれているだろう。川と川にはさまれてポンと打てばポンと鳴るからポント町と言うのだよ。
(木村)ああ、なるほど、つづみですね! これは一本取られましたなぁ!
(一同)あははははは

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