2007.07.09

09 幾何学の迷路 / 京都府立図書館その2

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 目玉飾りの解析をする前に、再び誤解を解かねばならない。今残っている外壁は武田の設計したそのままではない。竣工後の度重なる改修で変わったところがある。だから現存部をもとに考えをすすめても武田の考えに届かない可能性があるのだ。

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 どこが変わったのか。竣工時の写真をもとに復元してみた。2枚を見比べて間違いさがしをしてほしい。答えは次回に掲載するとして話を進めよう。復元された目玉飾りは図のとおりだ。今は円の下のふさ飾りが脱落している。この復元図をもとに武田がどうやってこの装飾を描いたのかを見てみよう。

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 まず円を描く。この装飾は目玉に見えるが本当はリース飾りだ。上下左右を布で縛りその中間2ケ所をX字にひもで結んでいる。円の上にひさしがある。それは円弧と水平線でつくられている。円弧と水平線との交点はどうやって決めたのか。このあたりが武田らしい。武田は円に内接する正六角形を描いて、その頂点と円の中心を結ぶライン上にその交点を置いた(図)。それを反対方向へ延長すれば、ふさ飾りの2ケ所の頂点も描ける。武田はこの目玉飾りを正六角形を基本に描いたようだ。

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 正六角形、つまり亀甲紋(きっこうもん)。亀のこうら模様のことだ。だからわたしは思う。床下換気口の鳥は孔雀ではなく鶴なのだと。この図書館は日露戦争を記念して建てられた祝祭建築でもある。鶴は千年亀は万年というシャレになっているように見えるのだ。武田らしい江戸趣味的な言葉あそびだ。

 さて、この図書館はあらゆるところに六角形が登場する。なぜ六角形なのか。亀甲紋の縁起をかついだことは間違いなかろうが、縁起のよい形はほかにもいろいろある。なぜ武田は六角形を選んだのか。それを解くカギもやはり目玉飾りに隠されている。

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 よく見てみよう。なぜただのリース飾りが目玉に見えるのか。それは円の中心に小さな円があるからだ。この小円はいったいなにか。わたしも最初この意味に気づかなかった。六角形を描いてみてようやく気づいた(図)。お分かりだろうか。そう、これは鉛筆の芯なのである。

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 この図書館は京都の伝統工芸の近代化を主な目的としていたことはご紹介した。若い職工たちがこの図書館で当時ヨーロッパで流行しているデザインを勉強するのである。画工と呼ばれたデザイナーたちは当然、筆で図案を描く。ただし武田たちの始めた新しいデザイナー教育は鉛筆を使った。それはヨーロッパと同じ教育方法を採用したからだ。ヨーロッパのデザイン教育の実態調査を日本で初めてまとめたのが武田だった。

 余談だが、日本で最初の国立の美術学校をつくった岡倉天心は美術教育から鉛筆を追放した。道具が違えばそこから生まれる作品も変わる。日本の芸術教育に鉛筆は不要というわけだ。この考えにそれまで美術教育を担っていた浅井忠ら洋画家が猛反発して鉛筆論争が繰り広げられた。その後岡倉は美術学校を去り浅井が美術学校の教授となった。鉛筆は解禁され浅井は京都高等工芸学校へ転任するわけである。鉛筆を使うことの意味が問われた時代だったのだ。

 鉛筆を使うことは武田たちの教育方法の大きな特徴だったというわけだ。だから武田は図書館の両肩に鉛筆を一段高く掲げたというわけである。まあ、そんな風に見えるってことだけどね。

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 などと考えながら壁面を調べていて、またまた興味深いものを発見した。それはこれだ(写真)。窓枠に唐突に現われたこの小円はいったいなんだ! この謎解きは次回!

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2007.06.30

09 幾何学の迷宮 / 京都府立図書館その1

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 これはなにか。孔雀のようにも見えるし、鶴のようにも見える。場所は京都市岡崎公園の府立図書館。床下の換気口だ。なかなかよくできている。ここへ来ると私は必ずこれを覗き込む。そのたびに、これはなにかと考える。

 府立図書館は武田の初期のデザインとして知られている。20世紀初頭、京都の伝統産業つまり織りと染めを近代化するために国立の学校が開かれた。京都高等工芸学校。その図案化の教授として武田はこの町へやってきた。同時代のヨーロッパでは工芸教育は建築家の役目だった。グラスゴーのマッキントッシュ。ウイーンのホフマン。その後のバウハウスだって校長は建築家だ。武田は日本で初めての国立の図案教育機関を担当する建築家として選ばれたわけだ。

 岡崎公園は、京都の産業振興のための博覧会場。恒久的施設として美術館、陳列館、図書館が建てられた。いずれも伝統産業に従事する若い職工たちのための教育を第一の目的とする。武田が陳列館と図書館を設計したのは当然とも言える。まず建物そのものが教材だったからだ。武田は図書館と陳列館を向き合わせ、白い壁に金色のテラコッタ(大型の素焼きタイル、これも京都の焼き物だそうだ)を配した。この配色はまがうことなきウイーン分離派だ。

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 誤解を解いておかねばならない。ウイーン分離派は、なんとなく優美な宮廷世界の延長のように思われている節があるが、実はそうではない。彼らにはもともとSF的なところがある。科学万能の新世紀を予感させるデザイン。彼らは都市や建築をモーターかなにかの機械のようにデザインする。幾何学的な箱をつくり、金属的な装飾を取り付ける。武田の好む幾何学的処理は、分離派ゆずりと考えて良い。ウイーンは当時ヨーロッパの工芸教育の最先端のひとつだった。彼は、分離派をモデルとした工芸教育を行なうとともに、自らの作品も分離派スタイルで律したというわけだ。

 さて、この床下換気口をよく見てほしい。一見自由な曲線で構成されたように見えるが、それはそう見えるだけだ。なにごとも幾何学的に決める武田が、そんな情緒的なことをするわけがない。はたしてこの楕円はどうやって描いたのか。

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 最初、黄金比1:1.4かと思った。でも、それにしては丈が短すぎる。割合としては1:1.15ぐらい。よく分からないのでコンパスを振り回して考えてみた。その結果、これは六角形を基本にしたものらしいことが分かった。なるほど。六角形は正三角形6つ分だ。正三角形の高さは辺の長さに対して1.73だから、六角形のすっぽり納まる長方形は3.46:4、つまり1:1.15。ぴったりである。

 武田がコンパスを使って、この図案を描いたことは間違いなかろう。というよりも、ここまでぴったりであることが、この床下換気口のデザインを武田が直接自分で決めたことをうかがわせる。

 なにもそこまでしなくてもと思うが、これが武田の持ち味なのだ。実は、図書館全体が幾何学的処理の宝庫である。今は外壁しか残っていない図書館だが、それでも武田の手の痕跡はいたるところで見つけることができるのだ。おもしろ過ぎるので次回も図書館。特徴的な2つの目玉の作図法を解いてみよう。

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2007.06.16

08 断片化する武田 / 京都陳列館門柱 

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 わたしは執念深く武田を追ってきた。これが武田の設計した京都陳列館の門柱であることは、まだあまり知られていないだろう。断片化する武田のひとつ。岡崎公園、京都市美術館の裏門である。陳列館は1910年竣工、武田43才の作品。陳列館は京都市美術館建設のため解体され現存しない。こいつだけが残っている。門の向こうは動物園。こどもたちが楽しそうなようすを、こいつはずっと見ているわけだ。

 わたしは武田作品と武田物件とそれほど区別しない。武田物件とは武田の影響を受けた作品のこと。先に見た御大典記念京都博覧会門柱などがそれだ。武田作品であっても、実際に武田がすべての図面をチェックしたわけではない。弟子の作品だって、よっぽど武田らしいものがある。ようは武田っぽさを楽しめれば良いわけだから、厳密に区別してはもったいない。ところがこれは、まがうことなき武田本人による武田作品なのである。なぜか。それは細部を見ればよく分かる。

 よく見てみよう。1本の門柱は3つの部分に分かれる。基底部と門柱部と柱頭部。門柱部と柱頭部は柱頭部は3:1の整数比になっている。しかも柱頭部は立方体だ。武田らしい幾何学的処理は、初期から発揮されている。

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 全体にすっぱり割り切った感じがするのがお分かりだろうか。御大典記念京都博覧会門柱と比較すると分かりやすいかも知れない。博覧会門柱は細かい線が多い。半円屋根と円の中心との関係もずれている。その下の涙型の装飾も機械的に決めた曲線ではない。博覧会門柱は、より情感豊かな作風と言えるだろう。それに比べて陳列館門柱のいかに機械的なことか。おもしろ過ぎる。

 かく言うわたくしも、最初からこのおもしろさに気づいていたわけではない。これは武田追っ掛けの悪いきつねさんに教えてもらったものだ。

 「この武田のあっさり感がたまらないですねぇ」

 正直わたしは、なにが「たまらない」のかさっぱり分からなかった。でもしばらく一緒に武田を見るうちに、わたしも「あっさり感」の虜となる。感覚とは開発されるものなのだ。おそるべし武田。おそるべし武田追っ掛け。

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 さて、最初に注意していただきたいのはその足下だ。これは武田作品の特徴のひとつ。名付けて「足下(そっか)の切り込み」。なぜ、そんなことをするのか分からないが、武田は必ずと言っていいほどこれをやる。門柱部と基底部の接する角。門柱の角は直角の切り込みがある。これが基底部とどうつながるか。武田はここに執念を燃やす。この場合は三角の切り込みを入れている。これは切り込みパターンの常套手段のひとつ。たとえば京都の同志社女子大の栄光館。その八角形の塔と基底部との間に似たものがある。「足下の切り込み」は武田作品の見どころのひとつだ。

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 この門柱の最も大きな特徴は、その目にあろう。目のある門柱なんてそんなにない。まあ、これは本当は目ではない。ギリシャ建築の柱頭部「イオニア式」の「巻き」だ。この巻きは西洋建築の基本的なモチーフ。だが、こんなに「あっさり」した巻きはほかにはないだろう。とても珍しいイオニア式なのだ。

 たとえば先の京都博覧会の涙型装飾をよく見てみよう。これは中央で2分割されている。分割線は3本の丸いひも。その間の2面も丸くふっくらしている。これが普通の西洋建築のやり方。それに引き換え武田の巻きはふっくらしたところが全くない。きっと石工さんが聞いたことだろう。

 「こんな、仮彫りみたいなので本当にいいのですかい?」

 それで良いと武田は指示したはずだ。建築家がわざわざ指示しなければ、こんな常識はずれな細部が生まれるものか。京都は文明開化のさきがけだ。西洋建築もたくさん建ててきた。その石工さんもこれにはびっくりしたろう。その石工さんは、その後武田作品を数多く手掛けた京都市北白川の石工・内田鶴之助さんだったのではないかとわたしは思う。それはともかく、この常識はずれの細部こそ「ウイーン分離派」スタイルだったわけだ。

 武田は、その後しばらくウイーン分離派で通す。なにもそこまで、という感じ。これは武田が望んだというよりも、当時彼の職場・京都高等工芸学校の教育方針だったからだろう。そのうち彼は和風再興に夢中になり「あっさり感」に磨きがかかるものの、ウイーン色は薄れていく。それでも分離派スタイルは彼のデザインの底流だったらしい。折に触れてそれが出てくる。1927年の旧島津製作所本社のショーウインドウ装飾など陳列館門柱とそっくりだ。

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 武田がウイーンへ行ったのは1903年。ヨーロッパ留学から帰朝する真際のことだ。武田31才。そのとき、ウイーンで得たインパクトが終生持続したわけだ。もし人がふたつの故郷を持つとすれば、武田のそれは間違いなくウイーンであったろうとわたしは思うね。

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